阪急電鉄の前身となる鉄道会社を経営することに
明治四十年、小林一三は、阪鶴鉄道の監査役になった。阪鶴鉄道は、現在のJR舞鶴線と福知山線を経営する私鉄会社だったが、明治三十九年に公布された鉄道国有法によって政府に買収されることになっていた。
一三が阪鶴の監査役を務めた期間は短いものだったが、新しく大阪を起点とし、池田、宝塚、有馬を結ぶ電気軌道を設立しようとする計画が建てられた。一三は、土居通夫、野田卯太郎ら関西財界のお歴々を相手に、失権株すべてを自分ひとりで引き受けるという、大胆な提案をした。土居らは、一三が自分たちに一切迷惑をかけないこと、会社を解散する場合は株主に証拠金すべてを返し、証拠金五万円は一三が支払うという厳しい条件の下、新しい鉄道――箕面有馬電軌――の経営を一三に委ねた。
明治四十一年十月、一三は『最も有望なる電車』というパンフレットを一万冊、大阪市内で配布した。パンフレットは、問答形式で編まれている。
「箕面有馬電気軌道会社の開業はいつごろですか」
「明治四十三年四月一日の予定です、先づ第一期線として大阪梅田から宝塚まで十五哩マイル三十七鎖チエーン及び箕面支線二哩四十四鎖、合計十八哩一鎖だけ開業するつもりです、そして全線複線で阪神電気鉄道と凡て同一式であります」
「それだけの大仕事が現在の払込金、即ち第一回払込金百三十七万五千円で出来ますか、それとも払込金を取るお考へですか」
「株主が喜んで払込金をする時まで払込を取らなくて屹度と開業して御覧に入れます」
まさしく、小林一三の面目躍如というべき企画である。当時、広く社会に会社の事業を公表し、賑やかに宣伝するといった経営者は、ほとんどいなかった。一三自身、このパンフレットこそ日本最初のパンフレットだと、自負していたという。
パンフレットの第二弾は、『如何なる土地を選ぶべきか、如何なる家屋に住むべきか(住宅地御案内)』と題されたもので、当初から一三が鉄道事業と不動産事業の結びつきを目指していることが解る。
通勤車両では必ず立っていた一三
多岐にわたる分野で活躍した小林一三は、多くのエピソードを残している。たとえば、毎日新聞社の名物記者だった阿部真之助はこんな話をしている。
阿部は宝塚沿線の池田駅近くに長く住んでいた。池田は、一三が分譲した住宅地で、一三も自宅を構えていた。当時、新聞記者は、優待パスを箕面有馬電気軌道から支給されていた。まだ、そんなに乗客が多くない時代で、阿部たちは毎日、座って梅田まで通っていた。
一三は、毎日、車内では立っていた。
ある日、たまたま、電車が混んでいた時があった。阿部が座席に座っていると、一三がやってきて、「君、立ってくれんか」と言う。とっさに何を言われているのか分からなかった阿部が、なんでですか、と問うと、一三は、「君は只じゃないか」と返してきた。御本人が立っているのだから仕方がない、阿部はやむなく座席を立った。(『小林一三翁の追想』)