「義足を見たい」という欲求を抑えられない性分
たしかに、『Voice』誌の連載にはそのような側面があり、しかも障がい者のプライバシーにより踏み込んだ記事のほうが、読み物として面白かったのも事実だ。それをもし、プライバシーののぞき見だと指弾されたら、私は返す言葉がない。
しかし、私はこうも感じていた。
個人差のあることだとは思うが、私は障がい者と向き合うと、障がい自体に目を奪われてしまう傾向が強いのだ。義足の人と対面すれば、まずは義足に意識が向いてしまうし、片腕が短い人にインタビューをしていて「街なかでジロジロ見られたくない」という言葉を聞くと、むしろ、その腕をよく見たいという欲求を抑えることができなくなってしまう。障がいのある部位を、ことさら意識してしまうのである。
その段階で終わってしまえば、取材を受けてくださった方は、私にとって「義足の人」であり「片腕が短い人」である。もしも、「彼は韓国人だから」「彼女は中国人だから」というように、属性によって個を語ることが差別の本体だとすれば、取材対象をまずは「義足の人」「車いすの人」「白杖をついた人」などと属性で認識してしまう私は、まぎれもなく差別的な人間だったに違いない。
取材を通じて「義足の人」が「○○さん」に変わる
実際、あるパラアスリートは、
「事故に遭う前の私は『○○さん』だったのに、事故に遭って車いす生活を送るようになった瞬間に、『あの、車いすの人』と呼ばれるようになってしまった」
と言っていた。それが、とても嫌だったと。
しかし、義足で歩くのはつらいのか、夜寝るときは外すのかといった興味関心のレベルから始まって、さらに個人史へ、パラリンピックにかける思いへと踏み込んだインタビューを重ねていくうちに、「義足の人」は固有の顔と名前をもった「○○さん」に変わっていき、義足が徐々に背景へと後退していくのを感じた。これは、連載を終えての実感である。