艦隊より航空戦力が重要だと見抜いていた

山本は、日本海軍のなかではその器におさまらないタイプの軍人であった。戦史研究家の吉田俊雄(元海軍中佐)の書くところでは、明治40年の「帝国国防方針」以来、海軍は「寡をもって衆を制す」という考えのもとに、戦艦を中心とした艦隊決戦思想を確立していたという。

そのためには同質の鋳型にはまった軍人をつくることを教育の眼目とし、独創的な意見や柔軟な発想をできるだけ排するシステムをつくり上げてきた。艦隊決戦ではそういう軍人のみが必要だというのであった。

山本は生来の奔放な性格に加え、アメリカ勤務や航空畑を歩くという軍歴によって、すでに太平洋戦争の開始時においても、艦隊決戦派とは一線を画し、航空主力の作戦をとなえていた。