「好き」とは一線を超えること
今振り返ると、日本ではまだ専門の学者が生まれてもいない特殊文化ばかりだったから、好きなことを進めるには長い時間とコストがかかった。本を買うにしても、話を聞くにしても、その資料検索や現地検索が困難で、コスト・パフォーマンスが悪かった。
そこで気づいたのは、「好き」とは一線を超えることだ、という事実だった。
恋愛でもそうだが、一線を超えると、平穏で退屈な毎日が一気に様変わりし、喜びも悩みも格段に大きくなる。つまり、平穏な日常が消滅する。
たとえばゲームを好きになったら、昼も夜もなくなるし、場合によると日々の食事や休息もおろそかになるように。
まあ、プランクトン研究やら芋虫の変態の神秘やら、興味深いが日常生活においては毒にも薬にもならない探究に魅せられると、いつのまにか読書と、その道の先達との狭い、面倒なお付き合いだけの、あまり歓迎されない社会人と化すほかはないのだ。
「世間様から笑われる」
このような場合、好きになった分野が運悪く日常生活に害もなく益もないと、まわりから「変人」と思われることになる。
この趣味がやっと世間に認められるには、苦節30年あまりを必要とする。それでやっと「変な物知り」として認知されてはじめて、それまでの無茶苦茶な暮らし方も親不孝も大目に見てもらえるようになる。
我が家では、わたしが会社勤めを辞めて物書きを生業にすると決めたとき、母は「世間様から笑われる」といって悲しんだ。
作家なぞという仕事は、ふつうの人たちにとって当時は「失業」と同義だったので、テレビのUFO番組に出演したりすると、「いつまで宇宙に行ってるのかい」と叱られた。

