読書における「集中する感覚」とは

たとえば、私の趣味は読書ですが、目の前の本に集中・没入できる時もあれば、数ページ読むだけで他のことばかりが気になり、まったく内容が入ってこない読書になってしまうこともあります。

何がこの差につながっているか考えてみると、集中できている時は、その本や著者と自分が一緒に、一体になっているような感覚があり、自分自身も著者と一緒に、本のメッセージを書いたり、伝えたりしているように読めている。そんな実感があるのです。

一方、まったくといっていいほど集中できない時は、本や著者とのつながりを感じることができません。親近感や一体感がないまま文章を読み進めていかなければならず、しだいにページをめくるのが億劫になってきてしまう……。

まさに、本や著者と一緒に、一体になれていない=集中できていない状態と言えるのではないでしょうか。

ひざの上に上でを置いて本を開いている女性
写真=iStock.com/patpitchaya
※写真はイメージです

小林秀雄的「物と親身に交わる」意識

と、ここまで解像度を上げていくなかでひとつ、「ある大切にしている本」と接続できるのではないかという認識がうまれてきました。

考えるヒント』小林秀雄(文藝春秋)という学生時代から愛読している本なのですが、この中で次のような言葉が登場します。

なお、この引用文に出てくる「宣長」とは「本居宣長もとおりのりなが」のことです。また、「かんがふ=考える」のことだと捉えて、一通り読んでみてください。

宣長が、この考えるという言葉を、どう弁じたかを言って置く。彼の説によれば、「かんがふ」は、「かむかふ」の音便で、もともと、むかえるという言葉なのである。(中略)それなら、私が物を考える基本的な形では、「私」と「物」とが「あひむかふ」という意になろう。(中略)考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験をいう。

要するに、「考えるとは、考える対象と親身に交わる=一緒になる、一体化すること」であり、「思考」も、今回のテーマの「集中」も、その本質は「対象との“つながり”をどれだけ感じられるか」という点に尽きる。このような捉え方をしていきたいのです。