まず、手堅い貸本屋からスタート

蔦重は1750(寛延3)年正月七日、江戸の吉原で生まれました。生まれも育ちも遊郭・吉原ってわけです。数えで7歳のときに両親が離婚して、地元のお茶屋さんに養子に入ります。ここ、『べらぼう』では名前を駿河屋――主が高橋克実さん、妻のふじが飯島直子さん――に変えてますね。

親なし、カネなしの蔦重がまず何から始めたかと言うと、貸本屋なんです。今の人が想像する、書棚のずらりとならんだ店舗に借り手が訪ねてくるのではなく、業者が風呂敷か何かで包んだ本を抱えて、お得意さん宅に出向いて届けてました。

TSUTAYAだからレンタルってわけじゃなくて、あの頃は色んなもの、例えば鍋とか釜とかの調理の道具や掛け軸、晴れ着や羽織なんかもみんな損料屋さんからの借り物ですませてたんです。

江戸は火事が名物って言うくらい木造建築ばっかりですから、誰もが焼け出される危険と隣り合わせ。ですから、必要なときだけ借りればいいや、というのがあの頃の感覚だったんでしょうね[TSUTAYAブランドのカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)を立ち上げた方々とは、血縁とかの関係はないそうです]。

本も同じで、安くはなかったんです。蔦重の時代の100年くらい前、元禄時代に出た井原西鶴『好色一代男』は1冊が今でいうと数千円はしたそうです。一般庶民ではなかなか手に入りませんし、火事で燃えちゃったらおしまい。じゃあ書き写そうかといってもそんなヒマはないし、コピー機もないからめんどくさい。借りるのが一番割がいいわけです。

しかも、貸本屋は江戸中にありました。蔦重が亡くなったちょっと後の1800年代始め頃には、貸本屋の組合が12もあって、650人以上の貸本業者がいたそうです。しかも一つ一つの業者にはお得意さんが百数十軒。読者は江戸全体で何と約10万人!もいたんだそうです。最初に本をそろえるのにちょっと元手がかかりそうですが、まあ手堅い商売だったんですね。