書くことが唯一の生きる証し
この手紙を受けて、新聞『日本』の編集長は「死ぬまで毎日載せる」と約束し、連載が再開。子規は連載記事を新聞社に送るための封筒を依頼し、100枚の原稿を送り続けました。
これに対して新聞社は300枚の封筒を送り、子規を励まし続け、子規は100回の連載をやり遂げました。
「この百日といふ長い月日を経過した嬉しさは人にはわからんことであらう。しかしあとにまだ二百枚の状袋がある。二百枚は二百日である。二百日は半年以上である。半年以上もすれば梅の花が咲いて来る。果たして病人の眼中に梅の花が咲くであらうか」
『病牀六尺』(岩波文庫)
『病牀六尺』(岩波文庫)
そうやって子規は死の直前まで連載を書き続け、ついに最後までやり遂げたのです。
「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた」
『病牀六尺』(岩波文庫)
『病牀六尺』(岩波文庫)
子規はそう語り、どんなに苦しくても生きることによって楽しみを見出すことが大切だと説きます。子規にとっては、書くことが唯一の生きる証しであり、楽しみでもあったのでしょう。