マスコミは「本当に話を聞いてほしい」と思ったときにはいない

ちなみに私なりの事件、事故、災害報道の解はやはり人間に迫りたいからだ、というものになる。

事件直後から、大量の報道を流す英国式を導入すればいいということではない。時間をおいてでも、事件などはもっと丁寧に描けばいいと考えている。日々、大量に流れるニュースのなかで、忘れないための報道とでも言えばいいだろうか。

ヒントになったのは、取材で接してきたある犯罪被害者遺族がぽつりとつぶやいた言葉だ。

「マスコミは遺族がまったく話を聞いてほしくない時期に駆けつけてくるけど、本当に話を聞いてほしい時と思った時にはマスコミはいないんですよ」

彼女は実の息子を少年犯罪によって亡くした。当時、事件は継続的に報じられたが、彼女は取材に対して口を開くことはなかった。やがて関心を持って取材を続ける記者は減っていく。

彼女は自身の経験を語る活動を続けることになるのだが、時間をかけて事件を語ることが自分のために必要だと気がついたときに取材にやってくる記者はいなかったという。活動の輪が少しずつ広がる中で、取材にやってくる記者はまた増えてくることになる。

机に突っ伏して悲しんでいる女性
写真=iStock.com/Watto
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「子供の写真の件で…」と話しかけてきた真意

「大切な人の死」という大きな出来事である。関心が高まるのは発生直後であることは間違いないが、時間をおいて、丁寧に取材先と関係を築き、今なら話したいと思うときに話を聞いて記事にすることでも十分にニュースは成立する。彼女への取材を通じて、私は話を聞いてほしいというタイミングを待てばいいと考えるようになった。

もうひとつ付け加えると話を聞いてほしくないタイミングも、聞いてほしいタイミングも人によって大きく異なる。

亡くした直後は聞いてほしくないと考える遺族が多いのは事実だが、ところがごく稀ではあるが「亡くなった故人についてより正確に知ってほしい」とメディアの前で答える遺族に出会うことがある。

最初期から現場を知っていることが強みになり、継続的に取材を重ねていくことで「最初から現場を知っている記者になら秘めてきた思いを語ってもいい」という遺族に出会うこともある。

何かと批判されがちな、被害者の顔写真掲載でもこんなことがあった。不幸にして子供が犠牲になってしまった災害で、少し時間が経ってから遺族から「子供の写真の件で……」と申し出を受けたことがある。写真の使用はやめてほしいという話だと思ったが、そうではなかった。報道で使用するのならば、自分たちが一番かわいく撮れたと思っている写真を使ってほしいというお願いだった。