菅の問いと班目の答えから、総理執務室の緊迫感は増し、再臨界はあるのかないのかという議論が延々に続きそうな気配を見せてきた。やりとりが続く中で、誰かが「そもそも海水注入の準備はできているのか。いつまでに結論をだせばいいのか」と聞いた。武黒が、「海水注入にはまだ1~2時間かかる」と答えた。張り詰めていた部屋の空気が緩んだ。

これをきっかけに、海水注入の準備作業が終わるまで、一旦、再臨界の可能性の検討は中断して、午後7時30分に再度集合しようとなった。議論は仕切り直しになった。しかし、この直後、230キロ先の福島第一原発の現場に、思わぬ電話がかかったことをきっかけに、後々まで語り継がれる吉田の名演技が繰り広げられることになる。

吉田の英断 海水注入騒動

免震棟では、水素爆発をした1号機に、現場が被ばくの危険を冒しながら粘り強く敷設し直した消防ホースを通じて、午後7時4分から海水注入が始まったことに安堵の空気が流れていた。水素爆発から4時間、絶望の淵からなんとか這い上がった。荒れ狂う原子炉をなだめようとする長い闘いが再び幕を開けた。その現場を率いる吉田は、次なる指揮をどうすべきか休む間もなく目まぐるしく頭を働かせていた。

午後7時25分。その吉田に電話が入った。総理官邸にいた武黒からだった。

「お前、海水注入は?」

「やってますよ」

「えっ?」

「もう始まってますから」

「おいおい、やってんのか。止めろ」

「何でですか?」

「お前、うるせえ。官邸が、もうグジグジ言ってんだよ」

「何言ってんですか」

電話は、そこで唐突に切れた。

吉田は、すぐにテレビ会議を通じて本店に武黒からの電話を短く報告し、本店は聞いているのかと尋ねた。

本店は、武黒から同じ趣旨の連絡があったと話したうえで、ちょっと判断を曖昧にしていると含みを持たせる言い方をした。吉田は、一瞬、この話を本店の判断で握りつぶそうとしているのかと思った。しかし、本店は「官邸が言っているならしようがない」と言い出した。

でも、午後7時すぎから海水注入はすでに始まっている。本店は、試験注入という位置づけにしようと提案してきた。ホースを繫いだ注水ラインが生きているかどうかを確かめる試験注入をしていたが、その後止めて、本当の注入を始めるかどうか判断を待っていた。そういう話にしよう。官邸の意向に沿って事実を書き換えて辻褄を合わせる。組織に染み付いた処世術が編み出すいつもながらの知恵だった。

だけど、と吉田は思った。すでに一度できている注入をやめて、もし事態が悪くなったら、誰が責任をとるのか。吉田は自問自答した。本来、本店が止めろというなら、そこで議論できるが、まったく脇にいるはずの官邸から電話までかかってきてやめろというのは、一体何なのか。指揮命令系統が完全に崩れている。これは、もう最後は自分の判断だ。吉田は腹をくくった。