金属の手彫り彫刻で身を立てる

「正直、税金の高いスウェーデンでは自分の生活費を稼ぐだけで精一杯だったわよ。でも、一度実家を捨てたことへの罪悪感でしょうね。毎月の仕送りは、どうせやるなら最後までと決めていた。それが私の性格なんです」

のちにパートナーとなったスウェーデン人男性とは、1975年頃からストックホルムで同棲を開始。その頃は、贈り物用の指輪、食器、トロフィーなどに名前・日付・家紋などを手彫りで入れる仕事をしていた。職場は、そのような金・銀・プラチナのギフト用品を取り扱う大手チェーン店。このような形式の店はスウェーデン国内には多くあり、とても身近な存在だ。

3年ほど働き、次はスポーツトロフィーの手彫りなどを手がける会社に転職。その後29歳で長女を出産し、31歳で長男が生まれ、育児と仕事との両立に悩むようになった。

会社への通勤には1時間。子どもを6時間保育施設に預けても、実質働けるのはたったの4時間だ。1日働いた分から保育料を差し引くと手元にはあまり残らないうえ、通勤の体力的な負担も大きい。何より、子どもと一緒に過ごす時間が少ないことに大きな不満を感じていた。

「だったら自宅で子どもを見ながら、3〜4時間だけ働くスタイルに変えたほうが良いのでは?」と考えた美知子さんは、1983年に個人会社を設立。長男が2歳になる頃だった。

自宅で子育てしながら働く手段

雇われて働くのとは違い、自分で仕事をつかみ取らなければならない。美知子さんは以前働いていた手彫りのギフト商品を扱う会社に電話をかけ、直接社長に「フリーで仕事をすることになったので、仕事をください」と依頼した。実にストレートだ。

社長は美知子さんのことを覚えていた。社員だった当時も美知子さんの技術には定評があり、王室からの依頼や王室宛の品を担当したこともあったそうだ。

当時、このギフト会社はスウェーデン国内で100店舗以上を展開していた。社長はすでに、美知子さんの腕を信頼していたのだろう。

「どのくらい欲しいんだ?」ときかれて「えっ?」と戸惑っていると、「おまえがやりたいなら、やりたいだけ全部やるぞ」と言ってくれた。そして、ストックホルム南部の約10店舗分の仕事を彼女に任せてくれた。

仕事内容は、主に「アクセサリーなどに家紋やモノグラム(2つ以上の文字などを組み合わせ、1つの記号を形成した文様のこと)を彫る」ことだ。

「私の専門は『ブライトカット・エングレーヴィング(彫刻)』です。ブライトカットっていうのは『輝きが出るカットをする』ということです」

美知子さんは、晴れてフリーランスとしての好スタートを切った。

しかし、この時点ではまだ無名の職人の1人にすぎない。彼女がスウェーデン王室から直接電話がくる職人になるまでに、どんな道のりがあったのだろうか。(後編に続く)

天板に手彫りで絵を描く日本人金属彫刻職人の美知子・エングルンドさんの手元
Photo by Ida Borg for Svenskt Tenn.
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