「シナ学」が抜け落ちている現代日本

――そもそも、中国史の視点から現代中国を解説するという本書の発想はなぜ生まれたのでしょうか。

日本には伝統的に「シナ学(シノロジー、中国学)」と呼ばれる、東洋史(中国史)・中国文学・中国哲学を柱として中華世界の総合的な理解を試みる学問があります。戦前、東亜同文書院や満鉄調査部など日本の中国研究シンクタンクは当時の世界ではかなり高い研究水準を誇りましたが、これも研究者たちのシナ学的な素養と無関係ではありません。

ひび割れた壁に書かれた日本と中国
写真=iStock.com/masterSergeant
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不幸なことに、こうした知見は中国侵略や諜報の武器としても使われたため、戦後はその反省から、伝統中国の知見に基づいて現代中国を分析する手法が学術界でなかばタブー視されるような風潮が生まれました。

ただ、「シナ学」が現代中国を分析するうえで有用であることに変わりはありません。にもかかわらず、外交官やジャーナリスト、経済アナリスト、現代中国研究者といった中国社会を分析する人たちのあいだですら、伝統中国の世界についての知見があまり共有されていない印象です。このことは非常にもったいないと感じてきました。

テレビのワイドショーなどでは、1980年代の改革開放政策以降の流れを把握できているならまだ良いほうで、ともすると前政権の胡錦濤時代の中国像すら抜け落ちた状態のまま、中国を語ろうとする論客さえいる。中国に対する憎悪や蔑視感情を刺激するだけの単純な言説も目立ちます。こうした言説は、中国という現実的な脅威に対する正確な理解を妨げるという意味で、むしろ有害と言えるでしょう。

「名球会」と「エアプ勢」の中国史論

――中国学によって現代中国を読み解く本は、過去にはなかったのでしょうか。

過去の東洋史学者では宮崎市定。近年の故人ではモンゴル史研究者の杉山正明氏や、中国文学の高島俊男氏。現役の研究者では岡本隆司氏などが、現代社会にも目配りのある素晴らしい著作を多く残されています。

ただ、こうした先生がたはいずれも、野球でいえば「名球会」レベルの名選手。逆に言えば、東洋史関連のアカデミックの世界は、身を修めぬ者が天下を論じるのはおこがましいという感覚が強すぎるのか、「普通のプロ選手」や「競技経験者」がそれを語ることを遠慮する空気がありました。これは学問的姿勢としては美徳なので、評価が難しい部分もありますが。

また、「名球会」選手の解説は素晴らしい水準なのですが、名選手だけに人数が限られる。結果、かえって「競技未経験の素人(エアプ勢)」の跋扈ばっこを許してしまうという問題があります。そのため、日本の一般向けの中国史言説では、野球でいえば「ホームランが多い選手はえらい」ぐらいの、非常に雑な解説が蔓延しています。OPSも盗塁数も守備率も、全然見ないで語るレベルの自称解説が、名球会の専門的な解説を押しやってしまっている。