「弁護士を志したのは弱い女性のため」と決めつけられ反発
共著『女性法律家』(有斐閣)に収録した「私の歩んだ裁判官の道――女性法曹の先達として――」という原稿では、戦前はいかに女性が差別されていたか、歴史的背景や教育システムから紐解きながら簡潔に説明している。
「完全な男性社会であったから、女性は常に被支配者」「女性が社会的・法律的に差別されている不合理」という言葉には差別された側の女性としての実感もありつつ、自分を超えたマクロな目線で当時の社会を分析している。
しかし、24歳のとき、女性で初めて司法科試験に合格し(同時に女性3人が合格)、マスコミに報道された際は、集まってきた新聞記者から「弁護士を志したのは、か弱き女性の味方になろうとしたのだろう」とやっきになって質問された。つまり、女性のための女性専門弁護士だと決めつけられるのに当惑したという。
「法律を学んで余りにも女性の地位や権利が惨めであることを思い知らされ、殆どの女性がそのことを知らずに生きている恐ろしさに心を痛めてはいたが、私が弁護士を志した動機、そしてこれから弁護士として生きてく目標がか弱き女性のためかといわれると『ハイ』とはいえなかった。女性を含めて困っている『人間』のために何か力になりたいという思いだった」(『女性法律家』有斐閣)
女性が不当に差別されている現状はあるが、女性も男性も同じ人間。「むしろ女性だからという甘えや口実の方が私には許せないことだった」とも書いている。
「女だからといって特別扱いはしません」と言われて喜んだ
戦後、裁判官を志して司法省に務め、東京地方裁判所に裁判官として配属されたときには、周囲の男性が女性判事をどう扱っていいのかわからず戸惑う中、「(裁判で扱うケースが)どんなに残酷な殺しの場面でも、またしゅう恥心を覚えるようなセックスの光景でも一旦職務となれば感情を乗り越えて事実を把握しなければ一人前の裁判官ではない」と覚悟を決めていた。
そして、配属先の東京地裁で上司になった近藤完爾裁判長から「あなたが女だからといって特別扱いはしませんよ」と言われ、かえって尊敬できると思った。その近藤裁判長は嘉子さんの追悼文集『追想のひと三淵嘉子』でこう書いている。
「仕事を始めてみると、三淵さんは性別や職歴の多少に何のこだわりも持たず、先駆者に間々みられる気負いも、その反対の甘えも全然感ぜられず、極めて自然に明るくのびのびと仕事に打ち込まれ新しい経験の吸収に熱心であった」
「(三淵さんが単独で任された事件では)お手並み拝見的ないわれのない偏見に遭遇したこともあるらしいが、三淵さんがそれを歯牙にもかけず、常に毅然としておられた」
「初期の頃、若い男女の愛情のもつれから起った事件の合議があった。三淵さんの発言には女性ならではの指摘がある一方で、女性なるが故にかばうようなところは少しもなく、むしろ女性に厳しい批判的な意見も述べておられた。真の平等とは女性が甘えず、甘やかされないところにある、と考えておられたからであろう
「(三淵さんが単独で任された事件では)お手並み拝見的ないわれのない偏見に遭遇したこともあるらしいが、三淵さんがそれを歯牙にもかけず、常に毅然としておられた」
「初期の頃、若い男女の愛情のもつれから起った事件の合議があった。三淵さんの発言には女性ならではの指摘がある一方で、女性なるが故にかばうようなところは少しもなく、むしろ女性に厳しい批判的な意見も述べておられた。真の平等とは女性が甘えず、甘やかされないところにある、と考えておられたからであろう