東大は勉強バカばかり

透明化と多様化の欲望をうまく両立させたい。その点で今の東大などの日本の難関大学の入試制度は、そこそこ上手くやっていると私は考えています。昔は東大に入学するには入試でいい点を取るしかなく、「東大は勉強バカばかり」と失笑されてもいました。その東大も2016年度からAO入試(学校推薦型)を始めています。日本全体を見ても、AO入試的な仕組みで大学へ進学する人が、多数派になりつつあるようです。試験の点に基づく透明な入試に多様な総合選抜の要素を流し込み、機能不全を起こすことなく透明化と多様化の二つの欲望を融合しつつあるのです。

歴史から学んでいるとも言えます。実は世界に先駆けて試験だけに基づくガラス張りの大学入試制度を作った国が日本でした。1902年、当時の文部省が「共通試験総合選抜」を始めます。東大の前身である第一高等学校など7つの旧制高等学校が全校統一の入試を課し、成績順に出願者を志望校に割り振っていく制度でした。最も透明な成績主義を徹底した制度で、その後多くの国が採用する仕組みの先駆けです。

けれど、この先駆的制度は透明すぎ成績主義的過ぎもしました。旧制高校に合格するために必要な試験の点の敷居が上がってしまい、東京出身の優等生の覇権が高まり過ぎてしまいました。地方出身者や家庭環境に恵まれない人にとって不公平だという反対運動が起き、数年で元々の制度に逆戻りすることになったのです。この教訓を踏まえてか、現在の日本の国立大学入試では、出願できる学校の数に強い制限があり、本入試も学校ごとにバラバラですよね。そうしてノイズやリスクを振りかけることで、成績最優秀層が無双し過ぎないようにしているとも解釈できそうです。明治から続く、透明性と多様性のバランスをとる試行錯誤の終着点だとも考えられるのです。

ただ課題も山積みです。たとえば性別に関する多様性の絶望的欠如です。学生に占める女性の割合は、2024年度で東大が19%、京大は21%。国会や上場企業の取締役会のような男子校状態が東大・京大などの学生段階から根づいてしまっているわけです。こうした属性の偏りの解消には数10年かかるでしょうし、属性枠(たとえば男女別定員)のような激しい介入なしに自然に解消することは考えにくいでしょう。

無意識のうちに“洗脳”

いかんいかん、ついふつうの真面目な話をしてしまいました。ここまでは前座で、肝心なのは大学に入ってからです。今日お話ししたいのは、大学に入ると、ふつうで真面目なことばかり考えがちだという問題です。そして成績や単位を揃えてそれらしい就職先を見つけ、業績を上げて出世や転職をするように手と頭が動いてしまう。身も心も“洗脳”にかかってしまうことが、大学の一番大きな問題ではないかと私は思っています。

東大のような大学に入った皆さんは似たような生き方をしてきた同世代に囲まれます。ペーパーテストで高い点を取るために勉強して、しかも勉強が得意で点数競争に勝利して親や先生から褒められてきた若者たちです。これが危険です。もう蟻地獄の中にいるようなものです。たまたま周りにいた東大生っぽい考え方や進路に気づけば乗っかってしまう準備が整っているのです。ほとんど無意識のうちにです。

当時の私も流された

東大生が選びがちないかにもな進路というものがあります。私が学生だった2000年代後半は霞が関を目指す人が減って、外資系の戦略コンサルティング会社や投資銀行に行くのが典型的なエリートコースでした。今はIT企業や商社、起業が典型的勝者でしょうか。当時の私も周りの東大生に流され、外資系投資銀行のリーマンブラザーズのインターンに行きました。2008年夏のことで、その数週間後にはリーマンショックが起きてリーマンそのものが倒産しました。いい思い出になりましたし、いい教訓になりました。東大生がこぞって進みたがるような進路は沈みかけの泥舟かもしれない、東大生がある種の業界や進路を好んでいることに深い論理や情熱はなく、あるのは惰性と周囲への同調以上でも以下でもないのかもしれない、と教えてくれたからです。

(本稿は2024年の東京大学五月祭の特別講演を発展させたものです)

本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(「もっと対立や嫌悪を 東京大学五月祭講演録」)。

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