「歴史の町」のいくつかの顔

左から石川理那さん、太田佳奈さん、三品万麻紗さん(撮影協力・多賀城「鳥善」)。

宮城県多賀城市。この地は奈良時代から長い間、東北の「中心」だった。724(神亀元)年、朝廷は東北支配の前線基地をここに置いた。軍事拠点が岩手の胆沢に移った後は、政治の中心となった。

平城平安の歌人たちはこの地に"異国情緒"を感じ、いくつもの歌枕が詠まれた。百人一首に収められた清原元輔(清少納言の父)が詠んだ「契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波越さじとは」の「末の松山」は、多賀城にある。現代語に訳せば「お互いに涙に濡れた着物の袖を絞りながら約束しましたね。末の松山を波が越すことなどあり得ぬように、けっして心変わりすることはないと」。この歌のとおり、今回の津波も末の松山を越すことはなかった。

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多賀城市の位置。

だが「歴史の町」という呼称は、多賀城の一部しか言い表していない。ここは陸上自衛隊第22普通科連隊ほかが駐屯する巨大基地がある「軍都」であり、ソニー仙台テクノロジーセンターをはじめとする工業施設が林立する「産業都市」でもある。陸自駐屯地の前身は、第二次世界大戦中の1943(昭和18)年に開設された軍需工場「多賀城海軍工廠」。多賀城市内の上下水道をはじめとするインフラストラクチャーはこのときに整備され、現在の人口約6万2000人を支えている。ここは住民の多くが西に隣接する仙台市に通うベッドタウンでもある。市内を東西にJR東北本線と仙石線、国道45号線が貫き、南北に三陸道が貫く交通動脈の地でもある(但し、多賀城市内には三陸道のインターチェンジはない)。

多賀城市が海に面している部分は、市内を流れる砂押川の河口部、幅約250メートルだけだ。海岸線はないに等しい。三陸や石巻のように、毎日海を見て暮らす町ではない。だが、市内面積の3分の1、砂押川の南岸は2~4メートルの津波に呑まれ、188人が亡くなった。うち約20%を占めるのは多賀城市民ではなく、通りがかった人だった。

被災から約1年半後、この町で3人の高校生に会った。インタビューは、その中のひとりの父の高校時代の友人が営む料理店を借りて行われた。店の1階はすべて津波に呑まれたという。店からは海は見えない。まさか、ここまで津波が来るとは思っていなかった——多賀城では何度も耳にすることばだ。

多賀城で会った3人の高校生のうち、2人は市内にある県立高校に通い、ひとりは仙台市内にある私立高校に通っている。まず、毎日1時間かけて仙台に通う彼女に話を聞こう。