関ヶ原の戦いで西軍トップとして惨敗を招いた毛利秀元(毛利元就の四男の子)は、のちに3代将軍・徳川家光から「友となすに足る人物」と評され、厚遇を得ている。秀元はいったいどんな後半生を生きたのか。歴史小説『遊びをせんとや 古田織部断簡記』を書いた作家の羽鳥好之さんが解説する――。
才能に恵まれ、努力を重ねても、勝てなかった男たち
才能に恵まれ、努力を重ねたにもかかわらず、ここ一番の勝負に勝てなかった男たち。そうした敗者の歴史が語られることはあまりない。
沢木耕太郎氏に『敗れざる者たち』と題する名著がある。ボクシングのカシアス内藤、マラソンの円谷幸吉など、充分な力を備えながら大勝負に勝てなかった男たちの内面を追う傑作ノンフィクションである。
この伝に倣えば、歴史の中で私が興味をそそられるのもまた“敗れざる者たち”だ。充分な力を備えながら「時の利」「地の利」なく敗れていった人物たちなのである。
毛利秀元という武将がいる。
関ケ原の戦いに際し、徳川家康に対抗して西軍の総大将となったのは毛利輝元であり、その輝元から采配を預かり、毛利軍の戦場での指揮をとったのがこの秀元だ。
関ケ原の勝敗を決定したのは、小早川秀秋の寝返りであるとされるが、同じ程度に大きな影響を与えたのが毛利軍の動きであったと私は考えている。関ケ原に進軍して西軍と対峙した家康配下の東軍に対し、毛利軍はその背後に位置する南宮山上に陣を張っていた。
夜明けとともに始まった東西の激突は、西軍有利のまま戦況が膠着する。小説や映画では、寝返りを約束していた小早川軍が動きを見せないことに苛立つ家康が、小早川へ向け、脅しの鉄砲射撃を浴びせるシーンとなる。
闘うことなく戦場を離脱した不名誉
だが、同じ時、西軍の石田三成もまた、南宮山の毛利隊に向けて矢の催促を送り、合図の狼煙を上げていた。
事前の打ち合わせ通り、毛利の大軍が山を下って東軍の背後を襲えば、挟み撃ちとなる東軍は大混乱に陥り、西軍の大勝利になる、それが三成の描いていた戦略であったからだ。
ところが、毛利の大軍は山を下りることなく、一方で、逡巡していた小早川秀秋が裏切りを決意して西軍に襲い掛かったことで、東軍の大勝利となったのは歴史の示す通りである。