「そんな商売でいいのか」と憤るネット民も、ひろゆきさん的なものを大事にしたいと思うファンもいて当然です。誰かに迷惑を掛けない限り、ネットにおけるひろゆきさん的なものは言論の自由の枠内で賛否両論ありながらも成立していていいのだというのは慎みある大人が感情はどうあれ理性的に受け止める、あるべき姿です。

それでも、ひろゆきさん界隈の空気が変わった(ネットでのひろゆき支持のクラスタが変容し始めた)きっかけはおそらくふたつ、20年10月の堀江貴文さんとの訣別と、22年10月のひろゆきさんの辺野古座り込み嘲笑写真投稿です。

https://bunshun.jp/articles/-/58134

このふたつは、いままで、どちらかというと世の中の事象全部を笑い飛ばす全方位はりねずみのような爽快感と面白さで好き嫌いという受け手の感情に作用し人気を保ってきたひろゆきさんの行動に「社会的意味」が加わった瞬間です。私を含め、ネットで物事を見ている人が「ああ、ひろゆきがまたなんかやってるわ笑」ではない別のベクトルがそこに加わったように見受けられます。

振り返れば、ひろゆきさんのプライベートでもそうですが、天衣無縫にも見えるひろゆきさんの嘲笑の対象からは、冗談が通じない本当の意味でヤバい筋が出てきそうな皇室問題や宗教ネタ、暴力団関係などは、溺れた犬状態になった旧統一教会相手以外は慎重に避けています。

本来はひろゆきさんならこういうタブーにまみれた欺瞞をぶった斬り、拍手喝采を得たいはずの状況でも、煽ったり嘲笑する相手を選んでいます。社会時評を扱う人であれば「所詮その程度の論客」などと批判したがるかもしれませんが、社会性の薄い一見客を大量に相手にしてウケを狙うひろゆきさんからすれば、込み入った話題に突っ込んでいって、揉め事になっても意味は無く、うっかり炎上してひとつのネタ見せの回転数が悪くなっても仕方がないのです。

https://www.chunichi.co.jp/article/339509

 つまりは、25年前の西村博之さんも2023年末の「ひろゆきさん」も私からすれば良くも悪くも全く変わっておらず、ある種の老舗の味であって、いわば西村博之個人の持つ爆発的な瞬間風速の強い機転でひとつの話題を面白いベクトルから描き出す能力一丁で世の中を渡ってきているのです。一言で言えば「その場が最高に面白ければそれで良い」ので、ひろゆきさんはひとつの話題に執着しません。彼にとっては、適当なことを言っても「さすがひろゆき」とちやほやされているのが一番心地よいのです。

25年前から変わらない伝統芸の本質

また、辺野古基地での座り込み揶揄については前述の通りひろゆきさんのメンタリティは実は古典的なネット保守に依拠していることが確実に視認されてしまいました。確かに連日座り込みをしていると言いながら時間を決めて現地の左派活動家の皆さんが張り付いている状態であることは、常識でちょっと考えれば分かりそうなものです。ところが、24時間座り込みをしているはずだという思い込みからその場に誰もいないところでにこやかにVサインで写真を撮り「新基地断念まで座り込み抗議 不屈 3011日」の文言に対し「座り込み抗議が誰も居なかったので、0日にした方がよくない?」と欺瞞であるかのようなレッテルを貼るのはネットミームとしてはかなり政治色の強いものでした。