戦国時代、鉛のニーズは爆発的に増え、タイからも輸入

戦国期では、鉛はおもに西日本での需要が急増していたといわれる。それは石見銀山の採掘が盛んとなり、銀の精錬技術である灰吹法はいふきほうには、鉛が必要不可欠だったからである。ところが、戦国合戦が激化し、鉄砲の使用が拡大すると、鉛の需要は爆発的に増え、国内産では到底賄えず、海外からの輸入が増えた。中国や朝鮮との東アジア貿易のほかに、南蛮貿易による輸入が、日本における鉛の需要(銀精錬と戦争)を支えていたのである。

南蛮貿易が日本の戦争を支えていたのは、鉛だけではなかった。火薬の原材料である硝石しょうせきも、海外からの輸入に頼っていた。

こうした日本の海外貿易は、九州や堺などが窓口になっていた。このうち、堺を掌握し、京都や畿内の物流を掌握したのが、織田信長だった。長篠合戦で、織田軍が鉄砲の大量装備と、豊富な玉薬の準備を実現できたのには、こうした背景があった。

大阪堺の鉄砲鍛冶の様子
大阪堺の鉄砲鍛冶の様子 秋里籬島 撰 ほか『和泉名所図会 4巻』,高橋平助[ほか4名],寛政8年(1796).国立国会図書館デジタルコレクション

堺を掌握する信長は鉄砲用の鉛を確保し経済封鎖した

これに対し、武田氏は、硝石や火薬、鉛の確保に苦しんでいた。たとえば武田氏は、富士御室浅間神社に対し、「鉄砲玉をつくるための銅を集めている。神前に投じられた賽銭(銅銭)の中から、悪銭を選り抜き、上納せよ。その代わり、黄金か棟別銭で補償する」と命じている。

この文書を証明するように、長峰砦跡(山梨県上野原市、中央自動車道談合坂サービスエリア付近)の堀跡から発掘された銅製の鉄砲玉は、化学分析の結果、中国からの渡来銭と成分がほぼ同じで、銅銭を鋳つぶして作成したことが判明している。長篠城跡出土の銅製の鉄砲玉も、化学分析の結果、中国の渡来銭と成分が一致することが2021年に判明した。

北条氏も、豊臣秀吉との戦争が迫るなか、鎌倉の寺社に梵鐘の上納を命じた。これを鋳つぶして、鉄砲玉にするというのだ。北条氏は、戦争が終わったら、新造して奉納すると約束している。この他にも、黒金玉(鉄玉)の記録も多く、東国では鉄砲玉の原材料には、鉛、銅、鉄などが混用されていたことが窺われる。

まるで、大戦中の日本の金属供出を彷彿とさせる事実である。鉄砲装備とは、まさに西高東低であり、武田勝頼は、懸命に鉄砲そのものと、玉薬の確保を行おうとしていた。だが、南蛮貿易や東アジア貿易の恩恵を、直接受けられぬ内陸国甲斐・信濃では、それは困難だった。しかも、どうやら織田信長は、武田・北条などの敵国に対し、経済封鎖を行っていたらしい。