諸外国の常識ではありえない国家機密の定義

過去の摘発者の中で具体的な証言をしている人が1人だけいる。2016年7月、同法違反で中国国家安全部に逮捕された日中青年交流協会元理事長の鈴木英司氏だ。鈴木氏は6年の実刑判決が下って収監され、先ごろ刑期満了で帰国し、その経験をメディアに語っている。

鈴木氏の場合、2013年12月の中国高官との私的な会食時、北朝鮮情勢を話題にしたことが反スパイ法に抵触したと扱われた。鈴木氏が話題にした北朝鮮情勢とは、北朝鮮の国家元首である朝鮮労働党総書記・金正恩氏の叔父で、当時は同国国防委員会副委員長だった張成沢(チャン・ソンテク)氏が粛清された一件だ(後に北朝鮮国営メディアが正式に処刑を発表)。

この情報は韓国の国家情報院が同国国会情報委員会の所属議員に2013年12月3日に報告。議員らがそれを明らかにしたことで、同日中に韓国内外のメディアが報じた。鈴木氏の証言によると、この翌日に中国高官との私的会食の席でこの報道を口にしたところ、高官からは「知りません」との返答が返ってきただけ。しかし、逮捕後にこれが反スパイ法に抵触したと聞かされた。

このやり取りを鈴木氏自身は「世間話」と称しており、一般的にも多くは同様の理解をするだろう。百歩譲ってやや意地の悪い表現をすれば、何らかの情報をぶつけて相手の反応を見る誘導尋問の一種、いわゆる「鎌をかける」と考えることもできるが、少なくとも証言通りならば、特に国家機密をやり取りしたことにはならない。

しかし、鈴木氏の取調官は「国営の新華社通信が発表していないニュースは国家機密にあたる」と申し渡されたという。中国ではインターネット検閲が行われている事情を組んでも、かなり理解しがたい論理である。

「産業スパイでは」との指摘もあるが…

今回拘束されたアステラス製薬社員は、同社の前身である旧山之内製薬出身者で、中国事業の経験が約20年におよぶベテラン。中国国内で活動する日本企業の団体である中国日本商会で役員も務めていた。

世間一般では「反スパイ法」「製薬企業の社員」というキーワードから、「何らかの産業スパイを働いたのではないか?」「拘束して逆に日本の製薬業界やアステラス製薬が抱える情報を盗み取ろうとしているのでは?」と考える人は少なくないようだ。

まず、中国では現在、世界各地の大学・研究機関への留学経験者や国際大手製薬企業(通称:メガファーマ)各社で働いていた人材などをベースに発足した自国の製薬企業が急速に成長している。特に人工的に製造した抗体を利用したバイオ医薬品領域では日本をしのぎつつある。

しかし、現時点での製薬企業の総合的な研究開発力は、まだ日本のほうがやや上である。また、前述のバイオ医薬品に関して言えば、本場は欧米であり、急成長の裏を返せばややハリボテとも言える中国の研究開発力に関する情報は、日本の製薬企業関係者がリスクを冒して得るほどの価値はない。

一方、欧米の研究機関などへの留学経験者を日本以上に擁する中国からしてみれば、日中の研究開発力の差が縮小した今、外交関係悪化を承知の上で日本の製薬企業の社員を拘束して得る必要のある情報もほとんどないに等しい。現在の日中の研究開発力の差は、そのような微妙な位置にある。