※本稿は、恩蔵絢子・永島徹『なぜ、認知症の人は家に帰りたがるのか 脳科学でわかる、ご本人の思いと接し方』(中央法規出版)の一部を再編集したものです。
家にいるのに「家に帰る」と言う認知症の高齢男性
市司さん
・男性
・83歳
・アルツハイマー型認知症
・要介護2
・夫婦2人暮らし
市司さんは、中学校の校長まで務めた教育者でした。退職後も地域の活動を積極的に行い、妻と2人、忙しくも充実した日々を過ごしてきました。80歳を過ぎた頃から気になる言動が増え、かかりつけの医師より、認知症の診断を受けました。
その後、引きこもりがちになってしまったので、デイサービスの利用を検討しましたが、気が進まないという理由で利用することはなく過ごしてきました。しかし、やがて妻が困り果ててしまう言動が目立ってきました。毎日、夕方になると荷物をまとめて、「家に帰る」と言い出すようになったのです。
妻は驚いて「ここが家でしょ」と伝えると、「何を言ってるんだ!」と大声を出して怒り出してしまいました。もともと物静かで、頑固ながら大きな声など出したことのない人だったので、妻は驚き、ショックを受けてしまいました。
「心が安心できる場所」を求める
多くのアルツハイマー型認知症の人に「親への固執(parentfixation)」という症状が表れることが知られています。家にいるのに「家に帰りたい」と言ったり、もう亡くなっている親について「お母さんはどこ?」と言ったりする症状です。
アルツハイマー型認知症では、新しい出来事の記憶を作ることには問題が表れるけれども、記憶を作ることと、記憶を蓄えることは別の組織が担っていて、すでに蓄えられていた大昔の記憶は無事だというが知られています。
現在のことは海馬の萎縮のせいでうまく覚えられず、把握しにくい。だから、昔の記憶の方が現在よりも鮮やかになります。そのために、「家」という言葉も、今暮らす家ではなく、たとえば、結婚前に暮らしていた実家や、小さな頃に暮らしていた家を意味するようになってきたり、親が亡くなっていることを忘れて、ずっと以前の姿で親が存在しているような気がしてしまったりすることがあるのです。