2018年、「政治分野における男女共同参画推進法」が施行された。それなのになぜ、自民党の女性候補者は少ないままなのか。キャスターで社会学者の安藤優子さんは「『ダンナの世話をしながら選挙戦を戦える女性がどの程度いるか?』『選挙は自己責任、つまり選挙資金と一定の支持者がいないと難しい』というイエ中心主義の考え方が、政治分野への女性参画を阻んでいる」という――。

※本稿は、安藤優子『自民党の女性認識 「イエ中心主義」の政治指向』(明石書店)の一部を再編集したものです。

国会議事堂
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なぜ「女性に対する認識」が障害になるのか

前回記事で、「森発言は、自民党の『イエ中心主義』の政治指向が『現役』であることを示してくれた一例である」と述べた。

ではイエ中心主義が育んだ「女性に対する認識」が実際にどのように政治の世界で障害になっているか、ひとつの例をご紹介しよう。

キャスターで社会学者の安藤優子さん(写真提供=安藤優子)
キャスターで社会学者の安藤優子さん(写真提供=明石書店)

2018年5月16日、国会では紆余曲折を経て男女の議員候補者を均等数にする法案が可決され、成立した。正式名称は「政治分野における男女共同参画推進法」である。この法は罰則を伴わない「理念法」で、あくまでも各政党に候補者を男女均等にするよう促すことを目的としている。強制力を伴わないので実効性がどこまであるのかは疑問であるが、法として成立するまでの悶着を考慮すれば、一定の成果と前進であることには違いない。

というのも、実は超党派の国会議員連盟(会長=中川正春。当時、民進党衆議院議員)がまとめた当初の法案では候補者数は男女「均等」ではなく「同数」であったが、「同数では“イコール”になってしまう」などの異論が自民党内から出てまとまらない混乱が生じた。しかし「表現よりも男女共同参画社会を一歩でも進めたいと」する蓮舫民進党代表(現・立憲民主党参議院議員)らが、自民・公明・日本維新の会の「均等」案に歩み寄ったという経緯があったのである。

「同数」ではダメで「均等」ならいい理由

なぜ「同数」ではダメで「均等」ならいいのか。同数は完全に男女が「イコール」になってしまうが、「均等」なら「ほぼ同じくらい」というニュアンスの「幅」があるというのだ。「同数」が意味する完全な平等・同等は容認できない姿勢の根底にあるのは、「男の仕事である政治に口を出すな」といったおそろしく前近代的な男性牙城意識である。

たとえばフェミニスト制度論の議論では、主に男性が主導して作り上げた公のフォーマルな制度に既にジェンダーバイアスが組み込まれているのと同様に、「政治は男の仕事」のような暗黙のルールや意識、慣習などはインフォーマルな制度として女性の参入を拒む障害と解釈される。

候補者均等法の成立の過程では、インフォーマルなルール(意識)即ち「政治は男の仕事」という価値観が、「均等」より平等認識が強い「同数」とすることを阻んだ。よって成立した候補者均等法には根底にジェンダーバイアスの「女性認識」が埋め込まれているのである。そもそも候補者均等法が強制力を伴わない理念法にとどまったこと自体が、女性候補者が男性と同等の条件で選挙の入り口に立つことへの拒絶感が強いことの現れである。法律すなわちフォーマルな制度がいかに可視化しにくい「女性に対する認識」に影響されているかがお分かりいただける一例であると思う。