交換から贈与へ 闘争から慈愛へ

──これからの日本は、成長一本槍ではやっていけないと思います。今後、日本はどのような道を進むべきでしょうか?

中谷 資本主義の本質をいろいろ分析していくうちに、気がついたことがあります。西洋が引っ張ってきた資本主義社会というのは、市場によって価値を「交換」させることによって成り立っています。逆に言えば、市場で「交換」できないものは価値がない、とするわけです。企業も、市場でより高く「交換」できるものばかりを考えるようになった。しかも、グローバルな市場で。

しかし、考えてもみてください。家族同士の愛情とか、地域社会の助け合いとか、人と人との心の絆とか、市場で「交換」できないものはたくさんあります。そうしたものがないがしろにされてきた結果、コミュニティが崩壊し、社会が荒れてきた。このあたりで一度立ち止まって、このままでいいのだろうか、と議論を始めないといけないと思います。

西洋的な価値観は、自分を主張して相手に認めさせ、自分のパワーを確立して富を蓄積するというものです。そのツールとして、市場交換が正当化されてきました。

さらに言えば、西洋的価値観の背景には、やはり一神教というものがあります。一神教では、ただ一人の神との契約が最優先される。だから排他的な考え方になります。周りの人とうまくやることが大事だという日本人の価値観とは違います。

自然に対しても、西洋は「自然から収奪すること」をヒューマニズムとして正当化しました。日本では「自然とともに生きている」「自然に生かされている」という感覚があります。私は「交換」にかわるものは、「贈与」だと考えています。「交換から贈与へ」です。「闘争から慈愛へ」と言い換えてもよいかもしれません。

「贈与」というのは、分け与えるということです。富める者から貧しき者へ、強き者から弱き者へ、分け与える。

先ほどの「還付つき消費税」も、その一例です。企業経営においても、昔から言われている「三方よし」、つまり「自分よし、相手よし、社会よし」という考え方が見直されるべきでしょう。

資本主義では、「企業の利益」と「公共の利益」はトレード・オフの関係にあると見ます。しかし、これからは、企業と公共に「共通する利益」が求められるように変わるということです。

功利主義的な「交換」では、「見返り」を強く求めます。「贈与」の精神こそ、家族の崩壊や老人の孤立、環境の破壊といった問題を解決する糸口になるのです。

「交換から贈与へ」は、単に経済的な問題ではありません。「文明の転換」ともいえるスケールの大きな問題です。この「文明の転換」を主導できるのは、昔から自然を愛し、多神教的な精神風土を持った日本人であると、私は信じています。

※すべて雑誌掲載当時

(樺島弘文=構成 川本聖哉=撮影)