「競合店が来て、営業赤字が出て、大変な状態になりました。しかもそのとき、我々は大きな間違いをしました。相手と正面から戦わなかったのです」

ヤマダ電機社長 一宮忠男 いちみや・ただお●1955年、宮崎県生まれ。83年入社。取締役、専務などを経て95年4月副社長。2008年6月より現職。会長である山田昇氏の甥。社長になった現在でも週末は欠かさずライバル店のチェックに自ら赴く。「使命感」が苛烈な仕事への動機。

つまり、価格攻勢できたコジマと同じ土俵には乗らなかった。薄利多売で疲弊するより、アフターサービスやサービスの付加価値を充実させることで対抗できると考えた。が、甘かった。「客のニーズ」を完全に読み違えたのである。

反転攻勢は、価格設定を改めることから始まった。よりリーズナブルな価格こそ、客の求める“直球ど真ん中”。「さらに赤字を増やすかもしれないという恐れも当然あった」が生き残る道はそれしかない。

安さが、量販店としての使命という立ち位置を、このとき、ヤマダは全社的に確立したといえる。だから、売り上げ300億円余り(91年度)の規模でしかなかったヤマダがわずか十数年後に2兆円近くを稼ぎだすまでに大成長したのだろう。とはいえ、「激安」でも利益がなければ経営は長続きしなかったはず。創業者で当時の社長・山田昇氏や一宮氏など首脳部は、このとき、コスト管理のための秘策を編み出した。

「ローコスト経営のために、家電量販店業界でウチが最初に始めたことっていっぱいあるんです」

例えば、自社物流システムの構築だ。それまでは各メーカーがバラバラの時間帯に商品を直接ヤマダ各店に納品してきて、検品などそれに対応するための手間暇と時間は相当なものだった。そこで全国にいくつか一括物流拠点をつくってそこで引き受けた。ヤマダが賢いのは、このシステムを商談に利用したこと。配送の負担が減ったメーカーに対して、仕入れ値の値引きを求めたのだ。一括物流は今では常識だが、ヤマダには先見の明があったといえる。