「悪いのは叱られる側」という正当化
とても不思議に思われるかもしれませんが、叱る人が「状況の定義権」を持っている権力者であることを思い出してください。それは、その場において何が「正しい」「あるべき姿」なのかを決める権限です。その権限があるからこそ、自分は「正しいこと」を主張し、状況を「あるべき姿」にしようとする課題解決者なのだと感じるようになるのです。
すると叱る人にとって、問題の責任は何度言っても同じことを繰り返して困らせる、目の前の叱られる人にあることになります。
「私は努力している。悪いのはこの人だ」
叱ることがやめられなくなっている人は、無意識のうちにこのような発想になっていることが多いのです。もちろん、いつまでたっても求める結果が得られない状況に、「自分が間違っているのだろうか?」「こんなことを続けても、何も解決しないのではないか」と疑問に思ったり、強烈な罵倒や罰で相手が苦しんでいる姿を見て、強い罪悪感を感じたりするかもしれません。そんなとき、たとえ「もう叱るのはやめよう」「もう少し別のやり方はないのだろうか」などと考えたとしても、〈叱る依存〉におちいっている人は、叱ることを簡単にはやめられません。
特に、自分が「叱ることをやめられなくなっている」という認識がない中で行う、叱らないための努力は、そもそも現状に対する認識が間違っているため、ほとんどの場合で失敗します。問題は解決しないし、叱ることもやめられない。行き詰まりの状況になってしまうのです。
ここに、「叱り続けることを正当化する」ニーズが生まれます。疑問や罪悪感を、「相手のためにしていることだ」「これはしかたのない、必要なことなのだ」という言い訳で消し去ってしまえば、自分のやっていることが間違っていないと思えるからです。けれども残念ながらこれらはすべて、叱り続けることを容認し正当化するための発想にすぎません。〈叱る依存〉をよいことに位置づけるための、苦しい言い訳なのです。
「私は叱られて強くなった」
「そんなことはない。叱られて立派に育った人をたくさん知っている」
「私は厳しく叱られたから強くなれた。感謝している」
「成功している人の多くは、厳しく叱られたと言っている」
「叱られたことの少ない人は、弱い人になるのでは?」
ここまで読まれた読者の中には、それでもやっぱりこのように感じられたり、疑問に思う方もいるかもしれません。しかしながら、こういった発想が頭によぎったら、実は要注意です。
私たちは自分の考えが「生存者バイアス」と呼ばれる認識の偏りの影響を受けていないかを、注意深く内省しなくてはいけません。生存者バイアスは、生存バイアスとも呼ばれ「脱落したものや淘汰されたものを評価することなく、生き残ったものだけを評価する思い込み」のことを指します。