「叱るのをやめよう」と思っても、なかなかやめられないのはなぜか。臨床心理士の村中直人さんは「叱ることがやめられなくなっている人は、無意識のうちに『私は努力している。悪いのはこの人だ』という発想になっていることが多い」といいます――。(第3回/全3回)

※本稿は、村中直人『〈叱る依存〉がとまらない』(紀伊國屋書店)の一部を再編集したものです。

若い女性の腕をつかみ怒っている男性の横顔
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DV、ハラスメント、虐待の構造

〈叱る依存〉という視点で見ると、DV(ドメスティック・バイオレンス)や、職場におけるパワーハラスメントについても虐待と類似の構造を読み解くことができます。共通しているのは「状況を定義する権利」の格差であり、他者を思い通りにコントロールしたい欲求が存在することです。

まずは夫婦やパートナー間のDVについて考えてみましょう。

親子の場合、小さな子どもと親の間に権力格差が存在することは明白です。子どもは親の庇護や養育なしでは生きていけません。それに比べると、夫婦間の権力格差は見えにくい側面があります。少なくとも建前上、夫婦やパートナー関係は「平等な立場」であるとされているからです。

しかしながら実態としては平等とは言い難いケースも少なくはありません。例えば経済力や社会的地位などを背景に、顕著な権力格差が発生する場合があります。腕力が権力の源となることもあるでしょう(そのため、全体の傾向としては男性が「権力者」になることが圧倒的に多数となります)。

権力格差が、権力者のニーズを満たすための〈叱る依存〉が発生しやすい環境を生み出し、自分の思う「正義」の執行のために、相手を思い通りにコントロールすることがやめられなくなる。この構造は決して特別なものではなく、ありふれた、どこにでも発生しうるものです。

虐待を「普通の親」がしてしまうことが多いのと同じように、DVをしてしまう人も多くの場合、「特別に残忍な悪人」などではありません。「相手のため」「おかしな状況を正すため」に暴力をふるい、暴言を投げつけるのです。DV加害者が家庭の外ではむしろおとなしくて、乱暴な振る舞いを一切しない人であることも珍しくありません。人は自分の権力と支配がおよばない相手を直接「叱る」ことはまずないからです。その意味で〈叱る依存〉は必ず相手を選んで発生しています。

これらのことから、ほとんどすべてのDV事例は背景に〈叱る依存〉が存在していると言っても過言ではないでしょう。当然、「DV」にいたる要因は〈叱る依存〉だけではないでしょう。ですが、無視できないくらいに重要な背景として、〈叱る依存〉があることもまた事実ではないかと思うのです。

DVの支配が生む歪んだ関係

DVによる支配が生み出す結果について、「トラウマティックボンディング」と呼ばれる興味深い現象があります。直訳するなら「トラウマによる強固な結びつき」とでも言えるでしょうか。トラウマティックボンディングは、過度な暴力などによって加害者と被害者のあいだに発生する奇妙な結びつきを意味する言葉です。周囲から見るとどう考えても離れたほうがいいのに、被害者は加害者を拒絶できず、離れられない状態が続いてしまうのです。

トラウマティックボンディングは、絶対的な権力者から罰を伴う支配を受け続けることで、被害者の自己評価が下がり自責の念が生まれるところから始まると考えられています。「おまえが悪いのだ」というメッセージとともに暴力や暴言を与えられ続けると、そのメッセージがその人の中に刷り込まれてしまうのです。その結果、加害者への精神的な依存が発生し、どうしたらダメで、どうしたらよいのか、「正解」を持っている加害者の意向を常に気にするようになってしまいます。

こうしたねじれた関係は、ネガティブ感情だけでなく、ポジティブ感情のコミュニケーションが同時にあることで、さらに深刻化してしまうことも指摘されています。加害者が時おり見せる愛情表現や気づかいが、被害者にとっての「報酬」になってしまうのです。予想していなかった報酬は予想された報酬に比べて強く報酬系回路を刺激し、より多くのドーパミンを放出する傾向があります。こうして、加害者と被害者のあいだに、驚くほど強い感情的な結びつきが生まれるのです。

私は同様の現象が、度を越した〈叱る依存〉状況においても起こりえるのではないかと考えています。そしてトラウマティックボンディングのような叱る側と叱られる側の結びつきが、〈叱る依存〉を擁護し正当化する材料の一つとされてしまうこともあるでしょう。「(被害者は)私を信頼している。だからこそ、私は(相手のために)叱っているのだ。何も問題はない」。こんな発想が生まれる可能性が高くなるのです。

脳に伝達された刺激
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職場のハラスメントと〈叱る依存〉

〈叱る依存〉のリスクは、家庭という密室だけでなく、みなさんの職場にも潜んでいます。

職場には「業務命令権」という強力な権限が存在しています。雇用されて働く人は業務範囲内の適正な指示、命令には従わなければいけません。この権限は雇用契約という形で明文化されているところに、家庭とはまた違った特徴があります。

もちろん指示や命令をする権利は業務を遂行するために必要なものなのですが、そこに大きな権力格差が生まれることもまた、否定しがたい事実です。すでに見てきたように、権力格差がある環境では、人が「ネガティブ感情を与え、他者を思い通りにコントロールする快楽」に依存してしまいやすくなります。叱る人が考える「あるべき姿」に、相手が従って当然という考えに支配されてしまうのです。

そう考えると「パワーハラスメント」とは、職場における〈叱る依存〉の一形態、もしくはその延長線上であると言えるかもしれません。厚生労働省の資料には実際にあったパワーハラスメントの例として「指導に熱が入り、手が出てしまった」「『馬鹿』『ふざけるな』『役立たず』『給料泥棒』『死ね』等暴言を吐く」「指導の過程で個人の人格を否定するような発言で叱責する」などの例が紹介されています。こういった状況が長期にわたって続いているとしたら、ハラスメントを行う側には相当な「報酬」が発生し、これらの行為に依存してしまっている可能性が高いでしょう。

また、職場における「セクシャルハラスメント」、いわゆるセクハラの問題にも同じ構造が隠れています。セクハラの場合、女性が被害者となるパターンが多数となります。そのため、職務上の立場の違いによる権力格差に加えて、男性優位な価値観による(時に無意識の)優越感を加害者が抱いているケースが多いことが予想されます。その場合、より強固な権力格差がハラスメントの背景にあると考えられます。

「叱る側」の被害者意識

ここまで、「叱る」が慢性化し、日常生活に支障をおよぼしてしまう危険性を、虐待、DV、ハラスメントを例に見てきました。ここでは、〈叱る依存〉におちいってしまった人が共通して抱きがちな、正当化欲求について考えます。

〈叱る依存〉が発生した場合、第一の被害者はどう考えても「叱られる人」です。彼らは本来の「学ぶ機会」や「のびのびと生きる機会」を奪われ、ただひたすらに目の前の苦痛から逃れることに心が占拠されてしまいます。しかもその影響が、長期にわたって続くのです。「叱られる人」にとっては悲劇と言ってもよい状況です。

けれど「叱る人」の主観的な体験は違います。叱る人にとって、被害者は自分自身であり、「叱られる人」こそが加害者だと感じる逆転現象が起きるのです。

「悪いのは叱られる側」という正当化

とても不思議に思われるかもしれませんが、叱る人が「状況の定義権」を持っている権力者であることを思い出してください。それは、その場において何が「正しい」「あるべき姿」なのかを決める権限です。その権限があるからこそ、自分は「正しいこと」を主張し、状況を「あるべき姿」にしようとする課題解決者なのだと感じるようになるのです。

すると叱る人にとって、問題の責任は何度言っても同じことを繰り返して困らせる、目の前の叱られる人にあることになります。

「私は努力している。悪いのはこの人だ」

叱ることがやめられなくなっている人は、無意識のうちにこのような発想になっていることが多いのです。もちろん、いつまでたっても求める結果が得られない状況に、「自分が間違っているのだろうか?」「こんなことを続けても、何も解決しないのではないか」と疑問に思ったり、強烈な罵倒や罰で相手が苦しんでいる姿を見て、強い罪悪感を感じたりするかもしれません。そんなとき、たとえ「もう叱るのはやめよう」「もう少し別のやり方はないのだろうか」などと考えたとしても、〈叱る依存〉におちいっている人は、叱ることを簡単にはやめられません。

特に、自分が「叱ることをやめられなくなっている」という認識がない中で行う、叱らないための努力は、そもそも現状に対する認識が間違っているため、ほとんどの場合で失敗します。問題は解決しないし、叱ることもやめられない。行き詰まりの状況になってしまうのです。

ここに、「叱り続けることを正当化する」ニーズが生まれます。疑問や罪悪感を、「相手のためにしていることだ」「これはしかたのない、必要なことなのだ」という言い訳で消し去ってしまえば、自分のやっていることが間違っていないと思えるからです。けれども残念ながらこれらはすべて、叱り続けることを容認し正当化するための発想にすぎません。〈叱る依存〉をよいことに位置づけるための、苦しい言い訳なのです。

「私は叱られて強くなった」

「そんなことはない。叱られて立派に育った人をたくさん知っている」
「私は厳しく叱られたから強くなれた。感謝している」
「成功している人の多くは、厳しく叱られたと言っている」
「叱られたことの少ない人は、弱い人になるのでは?」

ここまで読まれた読者の中には、それでもやっぱりこのように感じられたり、疑問に思う方もいるかもしれません。しかしながら、こういった発想が頭によぎったら、実は要注意です。

私たちは自分の考えが「生存者バイアス」と呼ばれる認識の偏りの影響を受けていないかを、注意深く内省しなくてはいけません。生存者バイアスは、生存バイアスとも呼ばれ「脱落したものや淘汰されたものを評価することなく、生き残ったものだけを評価する思い込み」のことを指します。

生存者バイアスが覆い隠す事実

〈叱る依存〉の場合で言うと、叱られ続けることで起きる弊害をなんとか耐え忍び、社会的な成功を収める人は確かに一部にいるでしょう。その場合その方の個人的な体験として、「叱られることで強くなれた」と感じることは十分ありえます。ご本人にとって、その経験や感情は大切なものでしょうから、当然ながら何ら否定されるべきではありません。

しかしながら忘れてはいけないのは、そのようになれなかった多くの人たちの存在です。生存者バイアスによって「ほとんどの人はうまくいかなかった」という事実が覆い隠されてしまっている可能性があるのです。そしてうまくいかなかった方の声が、社会に広く拡散されることはあまりありません。声が届くのは、一部の成功者たちのほうが圧倒的に多い。そういった前提にある「叱られて、私は成功できた、強くなれた」は、うまくいかなかった多くの「犠牲」の上になりたっている可能性が高いのです。

社会で正当化される〈叱る依存〉

生存者バイアスに限らず、〈叱る依存〉の正当化につながる言説がこの社会にはたくさんあります。私にはそこに、根強いニーズがあるように感じられます。叱り続けることを、なんとか「正しいこと」「必要なこと」「当然のこと」にしようとしている人が数多くいるのです。

村中直人『〈叱る依存〉がとまらない』(紀伊國屋書店)
村中直人『〈叱る依存〉がとまらない』(紀伊國屋書店)

この正当化ニーズの裏側には、仲間を求める心理があるのでしょう。同じように考えている人がたくさんいると思えたら「みんなそうなんだ」と安心できます。また、社会的な影響力のある人が言ってくれれば、自分の正当性をより強く主張することができます。そうなれば今まで通り、叱り続けることができるのです。そのため、〈叱る依存〉を擁護したい人たちは、同じ考えを持つ人たちと強く結びつきます。そして、こうした結びつきが、ある種の社会的な影響力を持つようになっていくのです。

その結果、もともと個人レベルの問題だった〈叱る依存〉は、さまざまな社会課題の発生にまで深くかかわっていくのです。