私は中学、高校時代に物語めいたものを書いては友人に読んでもらっていた。「君には文才がある。小説家になれ」といわれたこともあった。しかし、小説で食べていこうとは思わなかった。
大学卒業とともに入社したのは広告会社の博報堂で、企業PRの仕事に没頭した。30代になって本社の広報室へ異動すると、勤務状況がわりと規則的になり、週休2日制へ移行したことで、自分の時間に余裕が持てるようになった。すると「久しぶりに書いてみるか」という意欲がわいてきた。
そして1977年6月に1年がかりで書き上げたものが、横書きの原稿用紙で1450枚の『カディスの赤い星』である。端から本にする気などなかったものの、自分で読んでみて面白い。どの程度のレベルなのか知りたくなり、ある編集者に目を通してもらえるよう頼んだ。しかし、当時は原稿用紙500~600枚でも大長編といわれていた時代だ。結局、読んでもらえずに戻され、そのまま押し入れのなかで眠ることになった。
とはいえ一度頭をもたげた欲望はなかなか消すことができない。「読んでもらうためにはプロの作家になるしかないな」と考え始めた。それから短編小説を書いては小説雑誌の新人賞に応募した。4~5回は繰り返しただろうか。80年に『暗殺者グラナダに死す』で第19回オール讀物推理小説新人賞を受賞し、プロの作家の仲間入りを果たした。
しかし、新人賞を取ったくらいでは編集者は見向きもしてくれない。たまに長編小説を書いて単行本になっても初版止まり。このままでは“永久初版作家”かと思っていたところ、86年2月の『百舌の叫ぶ夜』で初めて重版がかかり、「何か作品を」と編集者から声をかけてもらえるようになった。そして、眠っていた原稿にようやく日の光が当たって『カディスの赤い星』として出版され、同年下期の第96回直木賞を受賞した。