「10分後に着きます。モノはありますので」

お客が置いていった千円札3枚を見ていると怒りが込みあげてきた。近くの4階建てのアパートに入っていくのを見て、あとを追って「お客さん、タクシー代払ってください」と大声でドアをたたいて、嫌がらせをしてやろうかとも思った。

 日本銀行注 1000 円
※写真はイメージです。(写真=iStock.com/minianne)

しかし、私にはその度胸もなかった。私にできたのは、その男の後ろ姿に「こんな理不尽な言動はいずれ自分に返ってくるぞ」と呪詛じゅその言葉を投げかけることだけだった。悔しさをみしめながら、泣く泣く帰庫した。

続いて、もっともアヤシイお客の話である。無線からの指示で、蔵前駅前で配車を待っているお客がいるという。行ってみると、40代後半と思われる、肩まで髪を伸ばしたサーファー風の男性がひとりで乗り込んできた。

「秋葉原」とだけ言うと、携帯電話でどこかに電話をした。「今から10分後に着きます。モノはありますので、その場で交換でお願いします。ええ、黒のタクシーです」指定されたバス停に到着すると、そこではお客よりもひと回りほど年輩ねんぱいの男性が人待ち顔で立っている。

するとお客は、「あの人の前で停まって。降りないから、いいって言うまで停まったままでいて」と指示してきた。指示のとおり、男性の前でクルマをいったん停車する。するとお客はウインドウを開け、何かを手渡し、交換に何かを受け取った。それが終わると、そこからワンメーターほど離れた場所を指定して、そこで降りていった。

確定的な証拠は何もないが…

じつはこのお客を、それから数週間後にもう一度乗せた。同じく蔵前駅前から乗ってきて、今度は別の場所に向かい同じように何かを交換していた。確定的な証拠は何もない。

しかし、違法薬物か何か、とにかく法に触れるようなブツの取引だと疑うのがふつうだろう。私もそう思った。そう疑いながらも、もし違ったら、お客にも会社にも迷惑をかけることになるのではないかという迷いも生じてきた。

このことは会社にも伝えず、自分で考えた末、もう一度、同じお客が乗ってきて、同じような取引をしたら、そのときは警察に通報しようと決めた。

そう決めて以降、再びそのお客を乗せることはなかった。何度も同じタクシー会社ではヤバイと思って他社に切り替えたか、もしくはすでに逮捕されたのか。いや、それとも私の思いすごしで、なんでもないものの受け渡しをしただけだったのか。

これまでも犯罪行為に加担などしたことのない私は、どうか後者であってほしいと願っている。