国民が支持した「ゆりかごから墓場まで」路線
第2次世界大戦後のイギリスは、保守党と労働党の二大政党です。日本の政党で言えば、保守党は自民党に相当し、労働党は日本社会党(現・社会民主党)に相当する政党です。東西冷戦の時代を通して、保守党は北大西洋条約機構(NATO)加盟などアメリカとの同盟関係を重視したのに対し、労働党はソヴィエト連邦との関係改善、主要産業の国営化など社会主義政策を推進してきました。
ここからは第2次大戦後のイギリス政治における思想の変遷を見ていきます。
ソ連が東側陣営の盟主として力を持っていた時代は、イギリス労働党にも勢いがありました。1945年に労働党のアトリー政権が誕生すると、社会保障制度や基幹産業の国有化などの社会主義的政策を推し進めていきます。労働党が目指したのは、「大きな政府」による福祉国家の建設です。
労働党政権は、石炭、鉄鋼、電気、ガス、鉄道、運輸、自動車など主要産業を次々と国有化すると同時に、全国民が加入する国民保険を整備して、誰でも無料で医療サービスが受けられるようにしました。「ゆりかごから墓場まで」という言葉を聞いたことがあるでしょう。これは、当時の労働党が掲げた社会福祉政策のスローガンです。「重税を課す代わりに、生まれてから死ぬまでの生活はしっかり保障しますよ」という労働党の政策は、国民に支持されました。
社会主義路線の結果「英国病」に
ところが、1960年代になると、イギリスの社会主義路線に暗雲が立ち込めます。膨大な社会保障費用が財政を圧迫し、かつ産業の国有化が国際競争力を低下させ、深刻な経済の停滞をもたらしたのです。福祉に慣れた人々は勤労意欲を失い、力を持ち過ぎた労働組合が年中ストライキを起こし、ゴミの回収など生活サービスが提供されない事態が続いていました。これがいわゆる「英国病」と呼ばれるものです。
実は英国病にあえいでいたこの間も、労働党と保守党による政権交代が数年ごとに起きていて、大きな政府で平等を志向する労働党と、小さな政府で自由を求める保守党の間で政策が揺れ動き、どっちつかずの状態が続いていました。
保守党政権がEC加盟に向けて動き出したのも、この頃です。一度はフランスのド・ゴール大統領に加盟を拒否されたものの、自由貿易に活路を見いだしたいヒース政権が再び交渉に臨み、EC加盟を果たしました。