初めて家業を手伝ったのは中学3年生のときでした。もともと我が社には「忙しいときはみんなでやろう」というDNAがあります。当時は会社の売り上げが100億円に達するかどうかという伸び盛りの時期で、忙しかったのです。夏休みなどのまとまった休みになると、バイトに駆り出されました。初めてバイトに入る前日には、父に床屋さんに連れていかれました。おぼこい中学生ではお客様が不安になると考えたのでしょう。少しでも大人っぽく見せるため、パーマを当てられたのです。

引っ越しの仕事は充実感がありました。朝6時から暗くなるまで働いてヘトヘトでしたが、お客様から「ありがとう」「助かった」と言葉をかけていただくと、疲れも吹き飛びました。それまでの人生で人にお礼を言われる経験はなかったので、喜びもひとしおでした。ちなみに夏休みが終わるころには、パーマが伸びて鳥の巣みたいなアフロヘアになっていました。そのままでは学校に行けないので、今度はスポーツ刈りに。ひと夏のいい思い出です。

高校は地元の県立に行きました。休み期間中のバイトも続行です。私はバイク好きで、初めてのバイクはバイト代を貯めて買いました。車の運転も大好きで、大学は車で通学できる大阪国際大学に入りました。実は父も車とバイクのマニアなのです。

卒業後は、まっすぐ我が社に入社しました。関西を出てみたかったので、配属は関東を希望。横浜支店で、営業職として働き始めました。

正直、創業者の息子としてのプレッシャーはありました。両親に恥をかかせることだけは避けたくて、1年目からとにかく何かで1位になろうと目標を立てました。我が社の営業職は引っ越しだけでなく、買い替えの家電製品やハウスクリーニンクなどのオプションも販売します。私が狙ったのは、エアコンの販売です。必死に頑張って途中までは1位でしたが、最後に百戦錬磨の先輩に抜かれて3位で終わりました。

厳しかった父の言葉「2番以下は一緒や」

私としては3位でも格好をつけたつもりでした。しかし、全国営業会議で行われた表彰式で、父は「2番以下は一緒や」とばっさり。改めて厳しい世界だと思い知らされました。

厳しい父でしたが、褒めてもらったこともあります。営業推進部の部長時代に採用活動を強化して成功したのです。引っ越し業界は3Kのイメージが強くて、就職先として不人気でした。一方、就活が本格化する春は引っ越しシーズンで、みんな忙しい。そのような状況下で、あえて接客品質の高い営業メンバーを採用活動に駆り出しました。父は「忙しいのに営業職を使って採用活動なんて」と猛反対です。当時は買い手市場でしたが、当社は「採用も品質」と、学生にもお客様に対応するように接する採用活動を行いました。