あまりにも美しく描かれる2人の死
女性になりたい、自分の中には女性がいる、だから新宿のニューハーフパブで働いてお金を貯める凪沙は、新人の服部樹咲(みさき)演じる親戚の被虐待児・一果(いちか)を預かるうちに「母性に目覚める」。やがてその“母性”に強く突き動かされるようにして、凪沙の人生はとある結末へと導かれていく——。手短に説明するなら、『ミッドナイトスワン』はそんな映画だ。
この映画には2人の人物の死が描かれている。1人目は一果の同級生・りん(演:上野鈴華)だ。裕福で派手好きな家庭に生まれ、親の過剰な期待に辟易していたりんは、バレエ教室へやってきた一果と急速に距離を縮める。だがけがによってバレエを諦めざるをえなくなったりんは、一果と一瞬甘く同性愛的な雰囲気に陥ったあと、自ら命を捨てていく。
そして本作で描かれる2人目の死は、凪沙である。一果の母になりたいと異国で性転換手術を受けた凪沙だったが、久々に一果と再会したときには術後の激しい後遺症に苦しみ、孤独の中で痛みと熱に堪える身体になっていた。2人で出かけた海辺で力なく腰を下ろした凪沙は、砂浜でバレエを踊る一果の後ろ姿を、もうほとんど視力のない目で見つめたまま、静かに息を引き取るのだ。
注目すべきは、この2人の死が、劇中であまりに“美しく”描かれていることだ。りんはビルの屋上で開かれた親の友人の結婚式で、唐突にバレエをくるくる踊りはじめ、グリッサードで机の上を飛び石のように跳ね、そのままふわりと屋上の手すりを越えて空へと飛び立っていく。凪沙は、砂浜の流木にもたれかかりながら、真っ青な海を背景にバレエを舞う少女を見つめて、静かに旅立っていく。
だが、なぜ性的マイノリティの(もしくは性的マイノリティの気配を宿した)2人の“女性”は、本作の中でともにひどく非現実的に「美しく、エモく」死んでいかなければならなかったのだろうか。そのほうが絵になるから? 感動を呼ぶから? もしかして、監督の趣味? その問いに対して、私はいまだに答えを見つけられずにいる。
“多数派”同様、人生は続いていくはずなのに
もちろんこれは映画だ。フィクションだ。「映画を盛り上げるために登場人物が死ぬ」という筋は物語としてわかりやすいくらいの定石だし、そういった表現に対して「正しい/正しくない」といった答えを出すことなどできない。
ただ、おそらく私は無意識のうちに、性的マイノリティが「生き続ける」映画を期待していたのだと思う。
確かに性的マイノリティとして生きることは、簡単なことではないはずだ。凪沙が作中で痛ましく何度も口にするように、「なんで私だけが」という思いを抱えながら、それでも懸命に目の前の現実と折り合いをつけて、一日一日、しがみつくように前に進んでいく。そんな人生を送っている人もいるだろう。
だけど性的マイノリティの人生だって、多くは「普通に=多数派同様に」続いていくのだ。この不合理な世界で、理不尽な社会で、“多数派”と同じように年を重ね、少しずつ老いていく。その長い人生の中で、死にたくなる日もあれば、幸せをかみしめる日もあるだろう。そんな普通の未来を示唆させる終わり方では、物語として成立しなかっただろうか?