私自身は東京都国立市で育ちました。高校は自宅から自転車で10分の所にある都立国立高校でした。その頃から将来の進路として学者の世界を候補の1つにしていました。家系がビジネス系なので、なんとなく反骨心を抱いていたのかもしれません。

当時、興味を持っていたのが物理学と数学です。高校生のとき、数学界のノーベル賞と呼ばれるフィールズ賞を獲った広中平祐先生が創始した「数理の翼」に応募して合格し、夏季セミナーに参加しました。参加者には数学オリンピックでメダルを獲った学生や、博士課程に進学中の10代のイギリス人女性もいて、私にはとてもいい刺激になりました。

広中先生が京大理学部の出身ということもあり、大学は京大に進学しました。現在も同様ですが、京大と東大に広中先生のサロンがあり、学生たちが自由に出入りできる交流の場になっていました。さまざまな分野の先生や先輩から最先端の話を聞けたことは、現在でもいい財産です。

専攻は物理でしたが、2回生までに卒業に必要な単位は9割ほど取得して学生生活の後半は余裕があったので、経済や法律・哲学などの勉強をしていました。特に経済学には興味をひかれました。経済にもメカニズムがあって理論や分析ツールで現実の社会を動かせることがわかって、これはおもしろいなと思ったのです。

そのタイミングで友人に大蔵省(現財務省)の説明会に誘われて参加しました。説明に来ていたのは田中一穂氏(後の財務省事務次官)で、氏の勧めもあり、大蔵省を受けたところ、入省が決まりました。研究者を志していたのですが、一方で現実の世界は生々しくて、理論どおりにいかないことがあるはず。それを1度自分の目で見たかったのです。また、過去には大蔵省から研究者に転身した方も多かった。そのことにも背中を押されて、97年に入省しました。

いま日本に必要なのは実体経済を強くすること

まず証券局に配属されたその年に山一証券、三洋証券が破綻しました。大臣官房の文書課に異動になった翌年には、大蔵省の接待汚職事件で省内は大騒ぎ。「地検がきたぞ」と誰かが叫んで、火事でもないのに4階の防火シャッターが閉められたことを覚えています。後にも先にも、大蔵省の防火シャッターが閉まったのはあのときだけではないでしょうか。

その後は理財局や関税局などにも配属されました。その頃の関税局は9.11後のテロ対策も落ち着いて大きな政治課題もなく、時間に余裕がありました。そこで個人的に関心があった財政や社会保障についてペーパーを書き、官房に送ったところ「財務総合政策研究所に行ってみないか」と打診を受けて、財務省の中で研究の道を歩むことになりました。