不況は人々の命と健康に害をもたらすと言われてきた。だが詳細に調べると、一部の国ではむしろ人々は健康になっている。公衆衛生学者のデヴィッド・スタックラーらは「その違いは経済政策だ。不況下に緊縮政策をとる国では多くの命が失われる。株価は元に戻るかもしれないが、失われた命は二度と戻らない」という——。

※本稿は、デヴィッド・スタックラー、サンジェイ・バス『経済政策で人は死ぬか?』(草思社)の一部を抜粋・再編集したものです。

コロナウイルスの経済的影響
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リーマン・ショック後の不況で心と体に傷を負った少女

オリヴィアは黒煙に包まれた恐怖をいまだに忘れられない。

8歳のときのことだった。両親がいつものように口論を始め、台所で皿が割れる音がしたので怖くなって二階に上がった。そして枕の下に顔を突っ込み、泣きながら耳をふさいで騒ぎが収まるのを待っていたら、そのまま泣き疲れて眠ってしまった。

どれくらい眠っただろうか。ふいに右の頬に裂けるような痛みを感じて目を覚ました。すると部屋に黒い煙が充満し、シーツから炎が上がっていた。オリヴィアは悲鳴を上げ、部屋から飛び出した。そこへちょうど消防士が駆け上がってきて、オリヴィアを抱きとめ、毛布を巻きつけてくれた。

その火事は父親の放火によるものだった。酒をあおった挙句に腹を立て、家に火をつけたのだ。アメリカが大不況〔いわゆるリーマン・ショック後の不況のこと。以下同様〕のただなかにあった2009年春のことで、建設作業員だった父親はその少し前に失業していた。当時アメリカには失業者が何百万人もいて、薬物に手を出したり、酒に溺れたりする例が少なくなかった。

結局オリヴィアの父親は刑務所に入れられた。オリヴィアは重度のやけどを負い、体にも心にも傷を負った。炎と煙に包まれたあの恐怖を乗り越えるために、それから何年もセラピーを受けなければならなかった。それでも生き延びただけましだったと思うべきかもしれない。もっと運の悪い人も大勢いたのだから。