「熱意」を「愛情」だと勘違いする親
ありのままの子どもを愛せない親にみられやすいのは、勉強や習い事、スポーツなどに熱心に取り組ませ、優れた能力や才能を子どもが発揮することばかりを期待することだ。子ども自体をあまり好きではなくても、優れた能力や才能ゆえに、子どもを愛することができるからだ。
オキシトシン系による愛着をベースにした本来の愛情は、その子をありのままに肯定し、安全基地を提供するものであるが、そこがうまく働かないため、子育ての喜びが、何かの目標に向かって頑張り、成果を出すというドーパミン系(報酬系)をベースにした、努力と達成による満足感に置き換えられる。
それは、本来の愛情というよりも、熱意といった方がいいだろう。教育熱というべきものに親もとらわれ、それに熱中することで、子どものために頑張っているような気持ちを味わうのである。その人自身がオキシトシン系の働きが弱く、自然な愛情が抱きにくい場合には、取り組みやすい代替行為となるのである。
ただ、それは無条件にその子を受け止め、共感し、肯定する愛情とは、決定的に異なっている。子どもが努力しても目標を達成できなくなったり、もうその努力自体を放棄してしまうようになったとき、Nさんがそうなったように、わが子を「失敗した存在」としか見ることができず、心の中で見捨ててしまうということになってしまいやすいのだ。
子どもを愛せないのは自分が愛されなかったから
子どもが可愛くない、子どもを愛せない、煩わしいと感じる母親は、急速に増えている。同じ子どもでも、一人は可愛いが、もう一人は可愛くないという場合もある。溺愛するほど可愛がっていたのに、あるときから手のひらを返したように愛情が薄れ、腹立たしさや怒りの方が強まってしまう場合もある。
何が起きているのだろうか。
子どもが可愛くない、愛せないという場合、背景としてまず多いのは、その人自身が親からありのままの自分を愛されておらず、安定した愛着が育まれていないという場合だ。そういう人がしばしば口にするのは、「自分さえも愛せないのに、子どもなんか愛せる自信がない」ということだ。「自分と同じような不幸な存在を増やそうとは思わない」という言い方をする場合もある。
ある意味、その人自身が子ども時代の課題を引きずっていて、子ども時代を卒業できないでいる。その人は、まだ子どものように自分の方が優先され、愛される必要があるのだ。
そんな状態なのに子どもを持てば、ただでさえ危うい状況を、さらに脅かすことになってしまう。子どもは自分にとってライバルや侵入者となってしまい、無意識の敵意を向けかねない。
そのことを本能的に感じ取っているから、「子どもなんか、ほしくない」「子どもは嫌いだ」と思うのである。それは、正直な発言であり、正しい認識だともいえる。そこを無理して親になってみても、どちらにとっても不幸な状況にならないとも限らない。
ただ、妊娠・出産を経て親になり、子どもの世話をするという体験の中で、その人自身が大きく変わる場合もある。生物学的なメカニズムにより、分娩時や授乳時にオキシトシンが大量に分泌され、愛着が活性化されるためである。
子どもなんかいらないと思っていた人も、可愛いと感じ、子どもの世話にすべてを忘れて打ち込むようになることも珍しくない。実際に子どもを持って、人生が変わったと感じる人も少なくない。
そこには正解はない。その人が自分なりの正解を出すことしかできない。