古代ギリシャから続くサイエンスとアートの対峙

著者によれば、このセンスメイキングのルーツは、古代ギリシャの哲学者で自然科学から論理学、芸術分野におよぶ広い範囲で偉業を残した知の巨人、アリストテレスが唱えた「フロネシス」という知のあり方にあるという。フロネシスは知識創造理論においても重要な概念で、「何がよいことか」という価値基準を持ち、その都度、個別の文脈のただ中で最善の判断ができる「実践知」を意味する。

なぜ、話がアリストテレスに飛ぶのか。それは、サイエンスとアートの対峙が、古代ギリシャ哲学に始まる二つの系譜の延長上にあるからだろう。一つは、知識は理性によって演繹的に導き出されると主張する「合理主義」であり、もう一つは、知識は感覚的経験を通じて帰納的に得られるとする「経験主義」だ。

合理主義は、アリストテレスの師、プラトンの哲学に始まる。プラトンは、真善美とは限りなく神に近いものであり、身体の五感を一切排除した理性によってのみ認識できるものであると説いた。すなわち、世の中の事象にはすべてに普遍性があるから、基本をなす普遍性をとらえなければならないと考えた。

これに対し、弟子のアリストテレスは、真善美は現実に存在すると考え、個別具体のなかから普遍化していくと説いた。世の中にはさまざま事象があるから、その一つひとつをとらえていかなければならないと考え、経験論的な視点から「知識は知覚から始まる」とした。

サイエンスの流れはデカルトから始まった

近代に入り、プラトン思想の流れを汲んだのが、合理主義哲学の祖とされる17世紀のフランスの哲学者デカルトで、本書にもたびたび登場する。「我思う、故に我あり」という有名な命題が示すとおり、デカルトは、「思惟する我」という精神は身体から独立して存在し、真なる知識は身体による感覚ではなく、精神によってのみ獲得できると説いた。

この「思惟する我」は、自分を自分以外の世界から分離させることで知識を得ようとする。このようにデカルトは、心と身体、主体(知るもの)と客体(知られるもの)とを分ける心身二元論、主客二元論を主張した。顧客の現実を対象化し、客観的・科学的・分析的にとらえようとするサイエンスの流れは、このデカルトの二元論から生まれ、現代において主流を占めるに至るのだ。