部長の言うとおり、事件そのものはたいした犯罪ではありません。網走刑務所帰りの男がパン屋の店先からパンを一個盗んだ瞬間、店主と目が合った。追いかけてきたので突き飛ばしたところ、高齢の店主が骨折してしまったため、単なるこそ泥が強盗致傷という罪名になってしまった。それが本人には納得がいかなかったのか、ずっと否認していたのです。しかしパンの袋に指紋は残っているし、目撃者もいる。これだけ証拠があれば起訴は可能です。にもかかわらず部長が自白をとってこいと言うので私は耳を疑いました。

「調べ直せって、今からですか」

「そうだ。◯◯署の署長に電話しておいてやる。俺の車を使って行け」

そのうえ検察事務官の新人を1人連れてきて、「今から大澤検事と一緒に◯◯署に行って、彼の仕事ぶりをよく見てくるんだ」と命じたのです。黒塗りの高級車で警察に乗り付けたのに、車から降りてきたのはいかにも頼りない20代半ばの新人ですから、出迎えた署長も拍子抜けしています。しかも取調室の扉には、書き初めのような長い紙に墨で黒々と「大澤検事取調中」と貼ってある。

重圧をかけられた私は緊張してしまい、「本当のことを言ってくれ」と過去に何度も繰り返したセリフを言うしかありませんでした。しかし言葉は同じでも、真剣さが違ったのでしょう。被疑者はこうも言いました。

「私のような社会の下のほうを走り回っている人間に、検事さんのようなエリートがこれだけ正面から向き合ってくれたのは初めてです。もう、すべて話します」

これが私の初めてとった自白でした。「自白というのはこうしてとるものなんだな」と、体で覚えたのです。

それ以来私は自白をとれるようになり、誰かが否認していると聞くと、「俺に調べさせてくれないか」と名乗り出るほどになりました。しかもそうやって経験を積んでいくと、どんどんコツがつかめてきたのです。

基本は、いかに真剣に相手と向き合い、相手を理解するか。ラジオの周波数を合わせるように、こちらから相手に寄り添わなければ、相手は絶対に話してくれません。