断っておくが私は由緒正しいサユリストである。生まれは彼女と同じ昭和20年(1945年)。彼女は3月の早生まれで、私は11月。敗戦の年だから生まれた子どもも少なく、同年の有名人は彼女の他にはタモリぐらいしかいない。
私が初めて小百合の声を聞いたのは、昭和32年に始まった『赤胴鈴之助』だった。ラジオに出たのは家が貧しかったからである。
父親は東大法学部卒業後、九州耐火煉瓦、外務省嘱託を経て、出版社「シネ・ロマンス社」を経営したが失敗。その後病を得て、働けなくなる。
彼女が『私が愛した映画たち』(集英社新書。以下『私が愛した』)で語っているように、「借金取りや差し押さえの税務署員が家の中に入ってきて」、家の中は火の車で、家計を助けるために新聞配達をすると母親に迫ったこともあったという。
ピアノの教師をしていた母親の収入だけが頼りだった。映画に出るようになり、食卓のおかずが増えたのがうれしかったそうだ。
「両親のことはまだ自分の中で総括できていない」
やがて新興映画会社・日活に入社し、石原裕次郎や赤木圭一郎の相手役に抜擢され、浜田光夫と組んで『青い山脈』『泥だらけの純情』などの純愛路線で青春スターの地位を確立していく。
子どもながら一家の大黒柱になった彼女だったが、映画スターとして花開いていく娘を見ていて、父親が、自分がマネージャーをやるといいだす。
父親は、松竹など他社への映画出演を認めてほしいと申し入れて(当時は五社協定があって他社には出られなかった)、会社側と衝突したりした。やがて娘との確執も始まり、彼女の恋愛や結婚にまで口を出すようになっていった。
小百合は『私が愛した』の中で、「両親のことはまだ自分の中で総括できていない」と語り、母親についても、「私は、母親と非常に特殊な親子関係だったと感じていたので、自分が子どもを持ったときにどういう母親になるかが、ちょっと怖かった」といっている。
彼女は男運のない女性である。『映画女優 吉永小百合』(大下英治著、朝日新聞出版)によれば、日本のジェームズ・ディーンといわれた赤木圭一郎は、小百合のことを強く愛していたという。
だが、撮影所で乗っていたゴーカートが壁にぶつかり、21歳の若さで死んでしまう。
純愛路線で共演してきた浜田光夫は、バーの客たちのけんかの巻き添えで右目を失明して、相手役ができなくなってしまう。あのまま2人のコンビが続いていれば、結婚しても不思議ではなかっただろう。
浜田の代役として『愛と死の記録』で共演した渡哲也とは結婚直前までいったことはつとに有名だ。両親に打ち明けたが大反対され、泣く泣く別れることになる。彼女が20代前半の頃であった。
過労とストレスで声が出なくなったときに結婚
年間16本も主演映画に出て、睡眠時間3~4時間でも、大学に入るための勉強を欠かさなかった頑張り屋の彼女だったが、私生活と超多忙な生活がたたって20歳を過ぎてから、ストレスで声が出なくなってしまう。
ここで、私が観た多くの彼女の映画の中で、忘れられない一本の作品について書いてみたい。
軟骨肉腫のために若い命を失ってしまう大島みち子と大学生・河野實とのはかなく悲しい恋を描いた『愛と死を見つめて』である。小百合19歳。東京オリンピック開催の日に封切られ、大ヒットとなった。