時計をいったん巻き戻そう。15年1月28日。福岡ベースの客室乗務員だった藤原里佳(32)が破綻を知ったのは、同僚からのLINEだった。「これから私の生活、いったいどうなるんだろう……」。メッセージを読んでまず、そう思ったという。夜になってマネジャーから「明日の乗務はいつも通りにお願いします」との一斉メールが届く。
翌朝5時、藤原は羽田行き7時台の初便乗務のため、福岡空港支店に到着する。支店長は徹夜明けの充血した目で、6人のクルーに「あなたたちの雇用は守るから、心配しないで仕事をしてほしい」と話した。翌日から、客室乗務員は乗客に経営破綻を詫びる機内アナウンスを行うようになった。
同じく福岡ベースの小田真也(32)は、「お客様に対して自分たちでできるサービスを、と支店の社員のひとりが描いたイラストをコピーして『塗り絵』をつくって、機内に持ち込みました」と振り返った。ニュージーランドの大学を卒業した小田は、海外の航空会社のように、日本で客室乗務の仕事をやりたいと考え、男性の客室乗務員が比較的多いスカイマークに入社した。会社も仕事も好きだったが、サービスを極端に減らす方針には違和感があった。
「荷物を棚にのせるのを手伝ったほうが出発の遅れを防げますし、小さなお子さんには絵本を貸し出したほうが、お子さんが機嫌よくいられて、まわりのお客様も快適に過ごせます。でも、サービスは禁じられていました」
破綻をきっかけに社員は手探りでサービスを再開する。乳児向けにおもちゃを手作りした社員もいた。藤原は「やっと客室乗務員らしい仕事ができると思った」と打ち明ける。
破綻時、沖縄支店ランプ管理課主任だった田中京太(39)は、知らせを「やっぱり」という気持ちで聞いた。田中は、半年ほど前から社内イントラネットに掲出される退職者の人数が急増していることに気づいていた。特に財務部門の離職者が多いことにイヤな予感がした。田中は「これで福岡に帰れる」と思ったが、すぐに「でもまだ辞められない」と思い直した。
「福岡支店の整備部門から、沖縄支店が開設された09年に那覇に転勤してきました。知り合いのいない沖縄で暮らすのは限界があり、福岡に戻してほしいと会社に異動希望を出していましたが、なかなか聞き入れられずに沖縄生活が長くなっていました」
無職になる不安より、福岡に戻れることを喜んだ田中だったが、部下の言葉に退職をとどまる。
「独身の私と違って、妻子のある若い部下たちはスカイマークでないと生活が成り立たない。だから、このままがんばりたい、と言うんです。私も、辞めるなら、技術面など彼らが一人前に働けるように支援をして責任を果たしてからだと思いました」
(一番上)左から、客室乗務員の藤原里佳氏、小田真也氏、ランプ管理の田中京太氏。(左下)掲示板には佐山会長の直通番号とメールアドレスが貼ってあった。(右上)福岡支店ではパイロット、整備、事務などがワンフロアで働く。(右下)乗務員が手作りした塗り絵。