それは“多様性”とは呼べない

出生率上昇への取り組み、3世代同居という回帰的家庭観、加えて「一億総活躍」……。なぜ、戦後レジームではある種タブーとされてきた戦前戦中的な価値観に手がかかったのかを考えると、やはりそこに手をかけるくらい現状が機能していない、あるいは日本という国が誰かから見て“危機的状況”だからに違いない。だがそれは誰の目から見た危機なのか。

“包摂と多様性による持続的成長と分配の好循環”という言葉に立ち戻ると、その多様性は多様性とは呼べないと思うのだ。いま働きざかりの女性と男性、そして少子化のど真ん中に育った子ども達の成長後の役割は、労働力への漏れなき貢献という観点から「働き、かつ家事もするもの」として固定化している。働いて「も」いい、家事をして「も」いい、と選択肢が増えたのではない。多様性の実現とは、生き方の選択肢が増えること、どの選択肢にも等分の敬意が払われることだ。描かれた姿以外の生き方は対象外となる国家観では、価値観の転換が図られぬまま、生き方と居場所だけが固定される。“労働力”は増えるかもしれないが、人材は育たない。人が本当に育つとは思えない国家観に、だから各論で目をくらまされてはいけないのだ。

河崎環(かわさき・たまき)
フリーライター/コラムニスト。1973年京都生まれ、神奈川育ち。乙女座B型。執筆歴15年。分野は教育・子育て、グローバル政治経済、デザインその他の雑食性。 Webメディア、新聞雑誌、テレビ・ラジオなどにて執筆・出演多数、政府広報誌や行政白書にも参加する。好物は美味いものと美しいもの、刺さる言葉の数々。悩みは加齢に伴うオッサン化問題。