政府によりまとめられた経済財政運営の指針である「骨太の方針」素案と、中長期計画「ニッポン一億総活躍プラン」。女性活躍推進や高齢者の潜在力活用など、各論は多様性の拡大といった社会のニーズと合致しているように聞こえる。しかし、「一億総活躍」のフレーズや総論には「なんとなく気持ち悪い」という声も。その理由とは?

政府は2016年5月、経済財政運営の指針である「骨太の方針」素案と、中長期計画「ニッポン一億総活躍プラン」をまとめた。少子高齢化克服、待機児童ゼロ、介護離職者ゼロ、女性活躍推進、長時間労働是正、同一労働同一賃金など、これまで報道で漏れ聞こえてきていた通りの内容ではある。しかしその全貌に対するメディアの評価は、「渾身(こんしん)の改革案」「成長堅持のための具体性に富む」といった好意的なものから、「税収増が不透明」「物足りない」との指摘、「変わらずの全体主義的センス」「民進党マニフェストの既視感」との酷評まで、その左右の立ち位置によってさまざまだ。

「一億総活躍」、違和感の理由

(以下「ニッポン一億総活躍プラン」より引用)
“日本には多くのポテンシャルを秘めている女性や、元気で意欲にあふれ、豊かな経験と知恵を持っている高齢者などがたくさんおられる。こうした潜在力とアベノミクスの果実を活かし、今こそ、少子高齢化という日本の構造的問題に、内閣一丸となって真正面から立ち向かう必要がある”
“少子高齢化の流れに歯止めをかけ、誰もが生きがいを感じられる社会を創る。一億総活躍社会は、女性も男性も、お年寄りも若者も、一度失敗を経験した方も、障害や難病のある方も、家庭で、職場で、地域で、誰もが活躍できる全員参加型の社会である”
(引用終わり)

「一億総活躍」とのフレーズが報道された時から、戦前の何らかの香りを嗅いで違和感を口にする人は多かった。特に、「ニッポン一億総活躍プラン」内で“成長の隘路(あいろ)”と表現される少子高齢化克服の目的が、そのフレーズが語る通り経済成長維持のための労働力確保にあることは明白だ。

女性活躍推進や高齢者の潜在力、一度失敗した人(ニートなどを指す)の再チャレンジといったポジティブな表現の数々は、一見、社会の多様性拡大などリベラルな論調と方向性を共にしているように見えるため、各論レベルではさまざまな論者の支持を取り付けるに至っている。

しかし“包摂と多様性による持続的成長と分配の好循環”という言葉をよくよく味わってみると分かる。“多様性の包摂”の狙いは結局「休眠している潜在労働力の吸い上げ(ムダの有効活用)」にあり、「いま社会に労働力として貢献していない“怠け者の社会的弱者”を働かせてやって、国家の成長に資すること」にある。その点に気付いている人々からは「各論で目くらましをされてしまっているが、総論としての国家観が気持ち悪い」との声が上がる。

全ての発想の根本は経済維持と成長であり、それらを実現する生産性の向上であり、ムダの効率化であり、さまざまな状況にある人々が住み、雑多なデータがごちゃごちゃになった(ごく自然な姿の)日本社会というコンピューターのクリーニングと最適化だ。

つまり、現在成功して見えるマネーの生産システム、企業中心の社会システムを揺らがせるような価値観の転換や人材は求められていない。効率的で整然とした秩序を乱すイレギュラーは要らないし、挑戦もして欲しいわけじゃない。“持続的成長と分配の好循環”の役に立たない“多様性”は“包摂”しないのだ。一度歩みを共にしたようでもそれは「袖振り合うも他生の縁」レベルの社交辞令であることを意識しておきたい。

「一億総活躍社会」に向けたプラン策定に係る審議に資するため、安倍総理大臣を議長とする「一億総活躍国民会議」が2015年10月に設置されました。半年以上にわたる有識者との議論の末に導かれたプランとは……。

「日本人の家庭観」、価値観はむしろ画一的な方向へ

「希望を生み出す強い経済」、「夢をつむぐ子育て支援」、「安心につながる社会保障」の「新・三本の矢」にも、結構なポエムが炸裂しているのを見て苦笑した人は少なくないだろう。夢を紡ぐ……。まぁ、夢だけならいくらでも紡げるのだ。

「3世代同居・近居」の促進と支援が報じられた時、当事者である働きざかりの子育て層からの反発は大きかった。若い女性の就業率向上、育児支援など高齢近親者の間接的労働力への囲い込み、在宅介護と、「3世代を同居させたら、いま少子高齢化の大きな問題を全てワンストップで解決できるじゃないか! アッタマいいー!」とうれしそうな誰かの声が聞こえてくるような施策に、

「産めよ殖やせよ、働けよ、介護もせよと、結局女に全てを担わせるのか」

と女性の呻き声が上がった。(参考記事:3世代同居支援が反発を招く理由 「伝統的家族回帰」のリスクとは

社会構造と価値観に手をかけずして、結局誰かにとって見慣れて安心な、旧来の“家庭観”に安易に収束させようとする……。すると、老体に鞭打って孫の育児をするのも、子供は母に任せたからと長時間ゴリゴリ働くのも、いずれ老親の介護のためにキャリアを諦めて退職するのも、女性なのだ。それは支え合いと言うよりも、世代間の連綿たる貸し借りである。(参考記事:「『仕事・育児を両立』した女性に限って、なぜ、50歳で介護離職するのか?」

日本の社会構造では、“女性の力”や労働力はあまりにも評価されず、それゆえに表面化せず埋もれてきた。だからなのか、ひとたび女性の力を活用すると決めたら、それは無尽蔵かのように、あるいは全ての社会問題を解決する魔法の呪文かのように扱われている。実際にはその立場にないものたちが施策に携わっているのがよく分かりはしないだろうか。最適化と効率化も、女性の活躍も正義だと信じてこのような発想が出現するのだろうが、でもそこに新しい日本の家庭観の提示、価値観の転換はない。

それは“多様性”とは呼べない

出生率上昇への取り組み、3世代同居という回帰的家庭観、加えて「一億総活躍」……。なぜ、戦後レジームではある種タブーとされてきた戦前戦中的な価値観に手がかかったのかを考えると、やはりそこに手をかけるくらい現状が機能していない、あるいは日本という国が誰かから見て“危機的状況”だからに違いない。だがそれは誰の目から見た危機なのか。

“包摂と多様性による持続的成長と分配の好循環”という言葉に立ち戻ると、その多様性は多様性とは呼べないと思うのだ。いま働きざかりの女性と男性、そして少子化のど真ん中に育った子ども達の成長後の役割は、労働力への漏れなき貢献という観点から「働き、かつ家事もするもの」として固定化している。働いて「も」いい、家事をして「も」いい、と選択肢が増えたのではない。多様性の実現とは、生き方の選択肢が増えること、どの選択肢にも等分の敬意が払われることだ。描かれた姿以外の生き方は対象外となる国家観では、価値観の転換が図られぬまま、生き方と居場所だけが固定される。“労働力”は増えるかもしれないが、人材は育たない。人が本当に育つとは思えない国家観に、だから各論で目をくらまされてはいけないのだ。

河崎環(かわさき・たまき)
フリーライター/コラムニスト。1973年京都生まれ、神奈川育ち。乙女座B型。執筆歴15年。分野は教育・子育て、グローバル政治経済、デザインその他の雑食性。 Webメディア、新聞雑誌、テレビ・ラジオなどにて執筆・出演多数、政府広報誌や行政白書にも参加する。好物は美味いものと美しいもの、刺さる言葉の数々。悩みは加齢に伴うオッサン化問題。