こんなエピソードがある。

人足寄場が創設された翌年の寛政3年(1791)、幕府が悪銭を鋳造したために銭相場が下落して物価が高騰した。老中の定信は、良貨を鋳造して銭相場を上げることは思いつかなかった。

それを見た平蔵は定信に提案した。

「江戸の主立った商人を町奉行所に呼び集め、町奉行を同席させたうえで、物価を下げるように説諭したい」

定信にとっては、渡りに船。反対する理由はない。

さっそく商人たちが町奉行所に呼び集められた。目の前には、町奉行と火付盗賊改が座っている。命令は、こうだ。

「物価を下げよ」

言うことをきかないわけにはいかず、商人たちは商品の値段を下げた。だが損をしたくない商人たちは店に並べる商品数を減らしたため品切れが続出。世間の物価が下がるまでには至らなかった。

すべて平蔵の計算ずくだった。

平蔵は、「物価を下げるため」と定信に掛け合い、幕府の蔵から借り入れた小判3千両で安い銅銭を買い占めた。

結果、一両日にして、「金1両=銭6貫200文」だったものが、「金1両=銭5貫300文」にまで跳ね上がった。そこで平蔵は、持っている銅銭を一挙に両替屋に売り払った。

平蔵は「市場操作」をおこなったのだ。

平蔵は、儲けた差額を、すべて人足寄場の経費に充当した。幕府が負担すべき人足寄場の経費を、幕府から借り入れた小判を元手に捻出したのだ。

こんな経緯があったから定信は『宇下人言』に「長谷川何がし」「功利をむさぼる山師」と書いたのだろう。

だが、すべては自分が許可したうえでのこと。結果的に幕府にとってマイナスにならなかったため、それ以上、平蔵の悪口を書こうにも書けなかった。

すぐれた人物には、必ず「不評」がついてまわる。周囲からは嫉妬される。

だが平蔵は、自分の評判はともかく、幕府(会社)のためになることを自信をもって貫いていたのだ。