女子校にミッション系が多い理由
戦前、女子は正式な「大学」に通えなかった。戦前から存在し現在に続く女子大学、津田塾や日本女子大や東京女子大などは、戦後になるまで正式には大学とは認められていなかったのだ。また、明治になって全国に急ピッチで学校が整備されてきたときも、男子のための中学校設立が優先され、女子のための中等教育機関は後回しにされた。
女子のための教育の整備に消極的な明治政府に対し、日本における女子教育の先鞭を付けたのがキリスト教各派の宣教師たちだった。いわゆるミッション系の学校が、明治の初期から設立されはじめた。現在でも女子校にミッション系が多いのはそのためだ。
1868年、アメリカ人宣教師の妻が築地の居留地内につくった英語塾が女子学院の始まり。横浜のフェリスも1870年にアメリカ人女性宣教師によって開かれた私塾「ミス・キダーの学校」がその祖。1871年には横浜共立の前身である「アメリカン・ミッション・ホーム」が設立されている。神戸女学院は1873年にできた私塾がそのルーツ。外国人が多い港町で、日本の女子校文化は産声を上げたのだ。
しかし富国強兵政策を支える良妻賢母の育成を求め、キリスト教教育を認めない国と、ミッション系の学校との間には常に軋轢があった。
1899年に高等女学校令が発布され、私立でも申請をすれば正式に高等女学校として認められる制度が整うが、たとえば女子学院は各種学校のままであり続けた。国による制約を受けずに独自の教育を行うことを選んだのだ。
ただしそれでは高等教育機関への入学資格が得られない。そこで女子学院は、5年間の「本科」の上に「高等科」を設置し、独自に高等教育を行ったのである。その高等科が母体となって、東京女子大学が設立された経緯がある。
神戸女学院は、1899年の高等女学校令公布に際して、国の定める高等女学校としての認可を正式に受けた。しかしその結果、キリスト教主義でありながら、式日には教育勅語を読まなければいけなくなった。キリスト教教育をやめるようにと、圧力もかかった。
そこで当時の院長は、「学院は政府から何も特典を与えられようとは思わないから、学院の宗教教育についても政府の干渉を何も受けたくない」とする書状を本国アメリカの伝道会に送った。伝道会もそれを認めた。
1903年に専門学校令が公布されると、1909年神戸女学院はその高等教育部門に当たる「高等科」を「専門部」として、専門学校としての認可を受けた。そして中等教育部門を専門学校に付属する「普通科」とすることで高等女学校の認可を返上し、政府の干渉から逃れたのだ。
こうしてミッション系女学校各校は、時の権力との距離を保つことで、独自の学校文化を発展させた。より詳細は拙著『名門校とは何か? 人生を変える学舎の条件』を参照されたい。