皇室を存続させるには「伝統の創造」が必要
皇室典範改正問題をめぐり、わたしが言いたいことはただひとつ、「皇室存続のためには、新しい伝統を創造しなければならない」ということだ。
「伝統の創造」という一見奇妙な表現で念頭に置いているのは、『創られた伝統』(原題を直訳すれば、『伝統の発明』)という本の議論である。編者のひとり英国の歴史家ホブズボウムは同書のなかで、われわれが古来のものと思っている伝統のなかには、じつは新しい時代につくられたり、再編成されたりしたものが少なくないと指摘している。
その例として、ブーディカ、ウェルキンゲトリクス、アルミニウスがあげられる。いずれも古代ローマと戦った族長たちであり、なかでもカエサルが『ガリア戦記』で強敵として描いたウェルキンゲトリクスはよく知られている。そんなかれらは元来は古代史の一登場人物にすぎなかったが、各地でナショナリズムが高まると、「外敵から祖国を果敢に守った英雄」として読み替えられていった。そしてそれぞれ英国、フランス、ドイツを代表する国民的英雄となったのである。
さらに、ブーディカはヴィクトリア女王、ウェルキンゲトリクスはナポレオン三世、アルミニウスはヴィルヘルム一世の時代とも重ねられ、各地に記念碑や銅像が建てられた。現在もその名残があり、ドイツのサッカーチーム「アルミニア・ビーレフェルト」の名は、このアルミニウスに由来する。
ここで重要なのは、「伝統の創造」とはまったくの嘘をでっちあげることではないという点だ。過去のなかから特定の記憶や人物を選び出し、そこに新しい意味を与え、あたかも現在まで連続してきたかのように組み直していく。そのような営みを指している。
同じことは、近代日本でも行われた。その代表例が、神武天皇の再評価だろう。明治維新では「神武創業」が掲げられた。ひとびとの頭にこびりついた江戸幕府の権威を否定し、若い明治天皇の存在感を高めるため、一般にはほとんど忘れられていた古代の天皇が日本の始祖としてリバイバルされたのだ。
神武天皇が即位したとされる奈良県の橿原には橿原神宮が造営され、その即位日とされた二月一一日は紀元節として祝祭日に定められ、即位したとされる年を元年とする紀元は皇紀と呼ばれた。そこから二六〇〇年とされた一九四〇年には東京五輪(※1)まで計画された。
現在でも日本各地に残る神武天皇の銅像は、顔貌が明治天皇に似ているものが見られる。まさに両者が重ね合わせられていた証拠だった。
さらに、神武天皇以来、ひとつの皇統が連綿と続いてきたとする「万世一系」が憲法の第一条に掲げられ、「男系男子」による継承は皇室典範によって制度化された。そして歴代天皇の徳と、それに尽くしてきた臣民の忠義(祖先の遺訓を守ったという点では孝行でもある)が日本固有の美点であり、「教育ノ淵源」であるという物語が、教育勅語の冒頭に組み込まれた。
日本は欧米列強の侵略に抗い、独立を守りながら急速な近代化を進めなければならなかった。そこで明治の指導者たちは、日本には昔から変わらない国家のかたちが存在するという物語を組み立てた。「復古」として語ることで、急激な変化に正統性を与え、それを国民の誇りへと結びつけたのである。
その中心となった法制官僚の井上毅は、明治国家のグランドデザイナーとも呼ばれている。国家のかたちを構想し、さまざまな制度や理念をひとつの体系として築いたのだから、その功績や大なりと言わなければならない。
では、このような議論からわれわれは何を学ぶべきだろうか。わたしはつぎのように主張したい。
言うまでもなく、目指すところは「万世一系」や「男系男子」という、明治国家で強調された理念をそのまま守り通すことではないだろう。
そのいっぽうで、そんなものは虚構にすぎないと断じ、捨て去ることでもない。人間の社会は、さまざまな物語や約束を共有することで成り立っている。それを虚構だからと投げ捨てればよいというのは、あまりに乱雑だ。そんなことを言えば、人権だって自然界にそのまま存在するものではない。虚構か否かではなく、どのような物語を社会が共有するかが肝心なのである。
同じように、伝統も時代にあわせてよりよく変えていかなければならない。それこそが、皇室を存続させる道ではないか。
令和にふさわしい物語を「再発見」すればいい
じつは、すでにそのような試みは行われてきた。戦後の皇室典範では、側室制度が事実上廃止された。かつて側室は、後継者を確保するうえで重要な存在だった。大正天皇も明治天皇の側室の子だった。だが、時代が変わるなかで側室への社会的な理解は失われ、大正天皇も昭和天皇も男子に恵まれたこともあり、側室をおかなかった。そして戦後には、一夫一婦を前提とする皇室へと完全に移行した。
その延長線上で、皇太子明仁親王と美智子妃(現在の上皇と上皇后)は新しい家族像を示し、「ミッチー・ブーム」を生み出した。それは皇室への親近感を高めることにもつながった。側室制度があったならば、こうはいかなかっただろう。だからといって、いまや平成の皇室像を伝統的ではないと難ずるものはほとんどいない。伝統とは、このように変わっていくものなのである。
であれば、皇位継承の担い手がますます減っていくなかで、今回の改正(※2)で採用された旧皇族の男系男子の子孫を養子とする案だけでなく、女性天皇や女系天皇の可能性についても、もっと真剣に考えるべきではないか。もちろん、それを「いまは男女平等の時代だから」というリベラルな理念や、「こんなに世論の支持がある」というポピュリズムで基礎づける必要はない。むしろ、それもまた日本の伝統のなかから「再発見」すればよいのである。
一案をあげたい。なるほど、現在から歴代天皇をさかのぼれば、父方をたどって神武天皇にいたるという男系の系譜が読み取れる。そのため、神武天皇以来の男系継承が再発見され、近代には「万世一系」という理念が強く打ち出されることになった。
だが、そもそも天皇は、なぜ日本を統治する正統性をもつとされたのか。その起点にいるのは天照大神である。伊勢神宮内宮に祀られ、皇祖神とされる天照大神は女神だった。その天照大神が孫の瓊瓊杵尊に地上の統治を命じたという神話が『日本書紀』の一書に記されている。その命令はのちに「天壌無窮の神勅」と呼ばれ、近代の国体論でも天皇の日本統治を根拠付けるものとされた。だとすれば、皇統の正統性を語る系譜の出発点には女性がいたということになる。これは少なくとも、男系だけが皇室の唯一絶対の伝統だという理解を相対化する材料にはなりうるのではないか。
そんなものは神話にすぎないと言うかもしれない。だがそう言うのであれば、神武天皇もまた神話上の人物にすぎないとなるだろう。ここで考えようとしているのは、過去を読み直すことで伝統を「再発見」することだ。
あるいは、現在の皇統譜では天皇に数えられていないが、古くから天皇に比肩する存在として語られてきた神功皇后(仲哀天皇の皇后、応神天皇の生母)に注目してもよい。日本には現実に女性天皇の歴史もある。こうした伝統を読み直すことで、まず女性天皇を、さらに女系継承の問題を、伝統の破壊ではなく伝統の再構成として議論することもできるだろう。
伝統はこれまで、その時代の必要に応じて読み替えられてきた。そうした柔軟さゆえに、皇室や日本は長らく存続することができたと言えるのではないだろうか。逆に特定の時代につくられた理念や仕組みに固執することは、かえってその強みを失わせかねない。
明治国家の建設にあたり、井上毅の仕事はあまりによくできていた。そのため、「万世一系」や「男系男子」にこだわりたくなる気持ちもわからないではない。だが、皇室を永く守るためには、現実の変化にも目を向けなければならない。いま必要なのは、過去を墨守することではない。令和の時代にふさわしい伝統を構想する、「令和の井上毅」のような存在なのではないか。
言い換えれば、それこそが「新しい伝統を創造する」ことなのである。
近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。単著に『「あの戦争」は何だったのか』『「戦前」の正体』(ともに講談社現代新書)など。
※1:1940年に開催が予定されていた第12回オリンピック。37年に日中戦争が勃発すると、資材不足や国際的批判が高まり、38年7月に日本政府は開催権を返上。「幻の東京五輪」と言われた。
※2:2026年7月17日、改正皇室典範が可決、成立した。皇族数減少への対策として、女性皇族が婚姻後も皇族の身分を保持することと、旧宮家の男系男子を養子として迎えることが可能となった。
※本稿は、雑誌『プレジデント』(2026年10月16日号)の一部を再編集したものです。
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