中山峠だろうと、いろは坂だろうとぐんぐん走る

秋田スズキ副会長の石黒光二が駒澤大学文学部歴史学科を卒業し、研修制度からスズキに入社したのは76年4月。札幌市の販社に配属されて営業マンになった。

石黒光二は言う。

「77年に発売された、ダイハツのエンジンを積んだクルマを、私は一台も売らなかった。売りたくなかったのです。他社のエンジンでしたから。それと、(排ガス)規制値に適合したエンジンでしたから、どうしてもパワー不足でした。あのクルマは、中山峠を登るのが難しかったのです。とてもじゃないけど、お客様には勧められなかった」

マスキー法をそのままコピーして国が作った規制と、最終ユーザーの使われ方の間には、明らかなギャップがあった。規制の適合車は、地域によっては使いものにならなかったのだ。

では何を売ったのか。「ジムニーをたくさん売りました」と石黒光二は話す。

鈴木修がホープ自動車から導入したジムニーは、乗用ではなく商用だった。2サイクルエンジンを搭載する軽自動車の排ガス規制で、乗用に比べて商用の規制値は緩かった。簡単な改良だけでクリアーできて、販売継続が許されたのだ。

ジムニーの国内販売台数は、1970年は4926台だったが、76年6832台、ダイハツエンジン車が売り出された77年は1万1706台、昭和53年規制の78年は1万3568台と大きく伸張していく。ジムニー1台あたりの利益は、他の軽自動車3台から4台分に相当した。

北海道の中山峠だろうと、日光いろは坂だろうと、ジムニーは難なく登坂とうはんできたのだ。

倒産しても不思議ではない状況にあって、ジムニーはスズキの生き残りを支えた"救世主”となった。

「おお! そうか。ケーキを食べるか?」

せっかくなのでもう一つ、ジムニーと鈴木修に関する秘話を明かそう。

永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)
永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)

2001年秋だったが、浜松のスズキ本社で鈴木修を取材した。経営的なことではなくて、「働き方」といった緩いテーマだった。こちらは、筆者に編集者、カメラマンと若い助手の4人だったが、部屋に入ってきた鈴木修はいきなり怒り出す。編集者からテーマの説明が終わるやいなやに。

「そんなつまらんことを俺に聴くために、お前たちは東京から新幹線を使って浜松までやってきたのか。しかも、1、2、3と、4人もいるじゃないか! 一体いくら金を使ってるんだ」

筆者と編集者は、何とかなだめようとするのだが、なかなかどうして機嫌が悪く、ブツブツ言って落ち着かない(広報を通し事前にテーマは伝えてあったのだが、こちらの知らないところで何か調子の悪いことが発生していたのかもしれない)。

席を蹴って、部屋を出ていってしまうかとも思えた。

と、そのとき、20代だった助手君がポツリと言った。

「僕、ジムニーに乗ってます」

この一言で、鈴木修は豹変する。

「おお! そうか。ケーキを食べるか? 山岳写真家を目指していて山道を走るのにジムニーを使っているって、それはいい選択だ。……何、(中古で購入したため走行距離が)10万キロを超えているって、それはいけない、いますぐ新車に換えなさい。安くしておくよ……」

以降、鈴木修は終始上機嫌となる。無邪気な子供のように。

鈴木修氏
撮影=上野英和
ガチ切れしたあと機嫌を直した修氏。根っからの営業マン。

「そんなつまらんこと」に対しても、真摯に答えてくれた。

「日本のビジネスマン、特にホワイトカラーが競争力を失ってしまった原因は「時間を切り売りする」というアメリカの発想を取り入れてしまったことだと、僕は思っている。時間で給料を貰うんじゃない、成果で貰うんだ。役職が上がるほど、たとえ休日であっても自分の仕事について、強い意識を持ち続けていくことが必要なんだ。責任はより求められることを自覚してほしい……」

予定の取材時間をオーバーしても付き合ってくれ、さらに会長室に招いてくれた。飾られていた若い頃を含めた自身や家族の写真について、丁寧な説明までしてくれた。

強烈な怖さと、飾り気のない親しみやすさとをもつ、稀代の経営者。

そんな鈴木修にとって、ジムニーはかけがえのない一台だったのは、間違いない。