ジムニーの前身は「ホープスター・ON型4WD」

リストラが一段落した頃、「自動車に再参入を」という機運が社内で沸々と湧き上がる。そこで、小野は「量産化で失敗したのだから、受注生産で行こう。特殊車なら可能なはずだ。農林用の平和な軽四輪ジープ」(同書)と発想した。

こうして開発された軽四輪駆動車「ホープスター・ON型4WD」が、やがてはスズキに渡り「ジムニー」になっていく。しかし、ジムニーのDNAはもっと深い。

「ホープスター・ON型4WD」は、戦前に軍用車両として試作された小型四輪駆動乗用車「ホヤ」が源流なのだ。開発したのは、戦前の国策企業だった東京瓦斯がす電気工業(東京ガスとは無関係)。戦闘機や軍事車両のエネルギー源としてのガス、電気を研究する会社として1810年に設立された。航空機部、自動車部、兵器部、火薬部などがあったそうだ。

ホヤは1934年(昭和9年)に陸軍の秘密兵器として試作された。が、アルミニウムを多用していたため、富士山山麓の原野を試走中にアルミにひびが入ってしまう。最終的に陸軍に採用はされなかった。

同社自動車部にいた技術者が戦後、ホープ自動車に転職。ホヤの開発に従事した技術と経験とをホープスターON型に全注入する。30年以上も眠り続けていた旧日本陸軍の秘密兵器が、平和利用の特殊な軽自動車として光を浴びる運びとなったのだ。

エンジンは、三菱重工業自動車事業部(現在の三菱自動車工業)から供与を受ける。軽自動車「ミニカ」に搭載されていた排気量360ccエンジン(空冷2サイクル)だった。1967年12月には運輸省(現在は国土交通省)から型式認定を受ける。手作りによる受注生産であり、市販一号車を買ったのは熊本の山間部で地域医療に従事する医師。58万円で納入された。

型式認定から1年ほど経過したとき、小野は鈴木修と出会う。この出会いがなければ、世界的な人気を博しているジムニーのいまはない。当然ながら、1.5リットルエンジン搭載の「ジムニーシエラ」、「ジムニーノマド」が、インドで生産されて日本など世界に供給されることもなかった。

「うちならハンコは3つあれば十分です」

自著『俺は中小企業のおやじ』(鈴木修著・日本経済新聞出版)には、「恥を忍んで打ち明けますと、当時の私には、2輪駆動と4輪駆動との区別がつきませんでした」とある。いわゆる事務屋である鈴木修は、自動車の知識が豊富にあるわけではない。それでも、売れる商品かどうかを見分ける”嗅覚”をもっていた。自身が頻繁に使った"カンピューター”が、AI(人工知能)となって指示を与えたのかもしれない。

鈴木修の“人たらし”の才が発揮されていくのは、ここからだ。小野と何度か飲食を重ね、人間関係をつくっていく。小野はやがて心を開き、エンジンを作る三菱に対する愚痴も鈴木修にこぼすようになった。新しいエンジンを供与してもらうとき、社内稟議でハンコが50個も必要になる、という内容だった。

鈴木修はすかさず、「じゃあ、うちのエンジンに換えませんか。うちならハンコは3つあれば十分です」と。

こうして、最初はエンジンを三菱からスズキに換えてもらう。スズキはエンジン5基をホープ自動車に納入する。その後、鈴木修は車両の製造権買い取りを、小野に提案する。

「うちに4駆を作らせてもらえれば、30万円ぐらいで作れます」などと説得し、小野はこれに応じた。しぶしぶ応じた、とも言われている。

鈴木修は蟄居の身ではあったが、浜松の本社に出向いて、「面白いクルマがあります。買い取って、商品化すれば必ず当たります」とプレゼン。本社はすぐに承認してくれた。

当時のスズキは軽乗用車「フロンテ」(1967年4月発売)がヒットするなど、第一次黄金期を迎えていて、新しいことに挑戦できる余裕があった。