スズキを世界的企業に育て上げた鈴木修元相談役は、2024年末に94歳で亡くなるまで絶対的なカリスマであり続けた。経済ジャーナリストの永井隆さんは「浜松本社で取材した際、鈴木修の機嫌が非常に悪かったことがある。そんな凍った現場を救ったのが若いカメラマン助手だった」という――。
ジムニーCX
写真提供=スズキ
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毎日パチンコ店で無為の時間を過ごす日々

「“雌伏の時”をいかに生きるか」、は人にとって大きなテーマだろう。

鈴木修はUSスズキ社長を1966年1月から務めたが、同社は10億円を超える赤字に陥ってしまう。1968年春に帰国の辞令を受け、浜松に戻る。赤字の責任をとるため、叔父でもある鈴木實二郎専務に鈴木修は辞表を提出。最終的に、辞表は専務の「預り」となり、退職には至らなかった。それでも、東京支店への転勤を命じられ、蟄居ちっきょの身となる。仕事は与えられず、支店がある新橋のパチンコ店に昼から入り浸る。時間をひたすら消費するためだった。

昼間の店内には、サボリの営業マン、パチプロ、学生、水商売風の女性、恐ろしい筋と見られる方、革命を思案する活動家、主婦……と、雑多な人種が思い思いに球を弾いていた。そうしたなか、まだ38歳ながら、鈴木自動車工業(1990年からスズキ)常務取締役という肩書きの男もいたのだ。

ザ・テンプターズの『エメラルドの伝説』、ピンキーとキラーズの『恋の季節』などの流行歌が次々と流れる、乾いた喧噪が飽和した店で、鈴木修は無為に時を過ごしていた。来る日も来る日も。

だが、パチンコをしながら待ってもいた。逆境を洗い流してくれる“雨”が降るのを。

何しろ、この男はじっとしていることが出来ない。「修さんは鮫と一緒。いつも動いていないと死んでしまう」(石黒寿佐夫・秋田スズキ会長)性分なのだ。なので、停滞の長期化は、彼の焦燥感を募らせるだけでマイナスでしかなかった。

恵みの雨を降らせる人との出会い

鈴木修が、ホープ自動車社長の小野定良と初めて会ったのは、東京支店に異動した68年の年末。日本小型自動車工業会のパーティーの席でだった。

ホープ自動車は、昭和30年代に軽三輪車で名を馳せたメーカー。同社の商品ブランド「ホープスター」は、軽三輪の代名詞だった。ゼロックスやホチキスのように。軽四輪も製作していて、主力工場は川崎にあった。

戦時中に自動車整備兵だった小野が、終戦後に上野で自動車整備工場として創業。やがて三輪と四輪のメーカーに変わっていった。

小野はスズキ社長で鈴木修の岳父である鈴木俊三と知古があり、68年末のパーティーの席でも、俊三の話から2人は近づいていく。

もっとも、この頃のホープ自動車は、遊園地で子供が乗るバッテリー駆動のマメ自動車など遊具を主に製作していた。社名にある自動車は、もう本業ではなかった。というのも、他社から供与されていたエンジンに不具合が発生。エンジンそのものを無償で交換せざるを得なくなり、経営危機に陥ったからだ。ホープ自動車は、自社でエンジンを作ってはいなかった。

果たして小野は、鈴木修にとって恵みの雨を降らせてくれる“特別な人”になるのか。

小野は64年に一度、自動車生産からの撤退を決断する。リストラを行い、700人いた社員は100人にまで減った。『「ジムニー」が拓いたスズキの経営』(島田眸著・にっかん書房)には「それで遊園地用のオモチャの自動車を受注するのである」と記されている。

同書によれば、撤退するまでホープスター・シリーズとして、三輪10車種、四輪6車種を世に出していた。

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