「こんなクルマは売れるわけがない」

1960年代後半は、急速にモータリゼーションが進む。こうした中で、受注生産による特殊車両をクラフト的に作って売るのには、どうしても限界があった。量産車には、販売価格で敵わなかったのだ。フェラーリやランボルギーニとは違う。

車両の製造権をスズキに譲渡したホープ自動車は、社名をホープに変えて遊園地のメーリーゴーランドをはじめ、子供向けの遊具メーカーへと事業転換していった。しかし、最終的には倒産してしまう。

スズキは68年夏には試作車を作り、開発を本格化させていく。初代ジムニーを発売したのは1970年4月。価格は47.8万円。鈴木修は40歳を迎えていた。

初代ジムニー
写真提供=スズキ
初代ジムニーはこんなスタイルだった。

発売するジムニーに対して、本社は懐疑的だった。「こんなクルマは売れるわけがない」、と。スズキのエンジニアたちがスズキ流の改良を重ねたものの、「技術部門の人間にしてみれば、よその会社の車を買ってくること自体が、非常におもしろくないのです」(『俺は中小企業のおやじ』)。

営業部隊も冷ややかで、売ろうとする本気度は薄かった。「『年に300台ぐらいは売れるんじゃないですか』という返事です。私は『バカヤロー、月に500台は売ってやる』と言いました」(同著)とある。

初代ジムニーの運転席
撮影=プレジデントオンライン編集部
初代ジムニーの運転席

ジムニーは市場創造型の商品

現実には、ジムニーはヒットする。発売3カ月目には580台が売れる。「四輪駆動の軽自動車」という、従来には存在しなかった新しい市場を立ち上げたのである。

経営者ではなく、マーケッター鈴木修として捉えると、ジムニーにはじまり、社長になった翌年(79年)に発売した「アルト」、93年発売の「ワゴンR」と、いずれも市場創造型の商品という点で共通する。つまりは、新しい顧客をつくり出したのである。

ジムニーが売れたため、ホープ自動車に支払ったライセンス料はすぐに元が取れ、USスズキでつくった大赤字も取り戻すことができた。

鈴木修にとって、小野との出会いはまさに福音となった。

オイルショックが発生したのは1973年秋だが、その最中の同年11月、鈴木修は専務になる。75年5月、スズキはパキスタンで「ジムニー」の生産を開始する。四輪車としては初の海外生産だった。

だが、連載第2回で触れたが、米マスキー法をベースにした国の排ガス規制をクリアーできず、スズキは窮地に陥る。スズキだけが2サイクルエンジンを搭載していたため炭化水素(HC)の処理が、技術的にできなかったのだ。

専務だった鈴木修は国会で答弁に立ち、一方で田中角栄をはじめとする政治家、各省庁をまわり規制を緩和してくれるよう、ロビー活動を展開した。

最後は、トヨタからダイハツ製550cc4サイクルエンジンの供与を受けて、急場を凌いでいく。

実はこの局面でも、ジムニーは不可欠の存在となる。