※本稿は、永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
軽市場に再参入したホンダ
1974年に乗用の軽自動車生産を休止したホンダが、「トゥデイ」を発売したのは1985年。最初は「アルト」と同じく商用で、88年には乗用も発売した。
実質的に一般ユーザー向け軽自動車への再参入だった。
ホンダの元幹部は言う。
「(本田宗一郎と並びホンダを創業した)藤沢武夫さんから、『お客様の顔を見て売れ』と我々は言われた。スズキが得意とする業販ではなく、ホンダのディーラーとして売れという意味でした」
こうして、85年に立ち上がった販売チャネルがホンダプリモ店(ベルノ店、さらにクリオ店とともにHonda Cars店に2006年に統一された)。
スズキとホンダの決定プロセスの違い
社長だった本田宗一郎と副社長だった藤沢武夫は、1973年10月に一緒に引退していた。
藤沢武夫著『経営に終わりはない』(文春文庫)には、次のようにある。
《私は本田の隣に行きました。
「まあまあだな」
「そう、まあまあさ」
しかし、実際のところは、私が考えていたよりも、ホンダは悪い状態でした。もう少し良くなったところで引き渡したかったのですが。
「ここでいいということにするか」
「そうしましょう」
すると本田はいいました。
「幸せだったな」
「ほんとうに幸福でした。心からお礼をいいます」
「おれも礼をいうよ、良い人生だったよ」
それで引退の話は終わった》
美しい話として、藤沢は自著で二人の創業者の引退シーンを描いている。しかし、現実はきれい事で表現されるものではなかった。
ホンダ元幹部はいう。
「生涯エンジニアだった宗一郎さんは引退できました。しかし、ホンダの経営を担っていた藤沢さんは引退などできなかった。
二人が引退を発表した後、残された経営陣はみなサラリーマン。創業者とは違い、どうしても、決定ができないのです。このため、藤沢さんにお伺いをたてに行き、決断を仰いでいた。軽への再参入のときもそうだったのです」
重要案件を含めて鈴木修がすべてを1人で決するスズキとは、ホンダは決定プロセスが違っていたのだ。


