50代でガン罹患
それはともかく、ホンダ元幹部は次のように解説する。
「日本の自動車販売は、昭和30年代に神谷正太郎トヨタ自動車販売(現在はトヨタ)社長がGMを模して整備した系列ディーラー方式が基本。藤沢武夫さんも、業販一辺倒ではなく、ホンダの名前を冠して軽自動車を売れ、とばかりに指示し、プリモをホンダは立ち上げました。
これに対し、強固な業販網を全国に築いたのが鈴木修さんでした。インセンティブ(販売奨励金)などの金の力ではなく、鈴木修さんと業販店の家族との人間関係が強さを支えています」
鈴木修は、50代で前立腺ガンに罹患し放射線治療により完治していた。病院は地元の浜松を避けて、沼津方面を選ぶ。
「僕は養子だから、陽子線で治した」
治った後だが、親しい人には軽口を叩いていた。
ガンにも負けず、50代の働き盛りだった鈴木修は躍動を続ける。
バブル経済が始まっていた1987年、晴海で開催された東京モーターショー。来場者が溢れる会場で、鈴木修はマツダ副社長だった渡辺守之をスズキの展示車両に乗せる。
バタン、とドアを閉めた次の瞬間、鈴木修はいきなり、強烈なセールスマンに変身する。
「ウチはマツダさんに軽自動車を供給できますが、いかがでしょう。マツダさんは小型車をたくさん売ったらいい」
車内という密閉された空間で、口調はアグレッシブだが眼差しは包み込むような柔らかさを放つ。
スズキ初のOEM
軽自動車需要が落ち込んでいた1977年、マツダは軽自動車の生産販売から撤退していた。ホンダは74年に軽自動車の乗用から一時撤退したのに対し、マツダは商用も含めて軽そのものから撤退していたのだ。
鈴木修のセールスは成功。スズキにとっての最初のOEMとなる。社内や代理店から「自社の軽が売れなくなる」と反対があったのを、押し切ってしまう。
金余りのバブル時代、クルマは飛ぶように売れた。3ナンバー車の日産「シーマ」、女子大生から好まれたホンダ「プレリュード」(3代目)、三菱自工の「パジェロ」など、登録車は多目的で売れた。85年に約403万台だった登録車の国内販売台数は90年には約598万台に。引っ張られるように軽市場も拡大し、85年の約153万台が90年には約180万台に達していた。
市場の拡大基調を受け、マツダは89年に販売網をトヨタと同じ5チャンネル体制とする。5チャンネルの一つ「オートザム店」にて、「アルト」をベースにした「キャロル」として軽自動車を販売していった。5チャンネルを構築するのに、商品としての軽自動車は求められたのだ。
