バブル崩壊後にも経営は安定

1990年代に入ると、バブル経済は崩壊していく。大蔵省(現・財務省)が金融機関に対し、不動産融資総量規制を通達したのは同年4月だった。ここから、“失われた時代”は始まっていく。“イケイケどんどん”とばかりに前のめりになっていた、自動車メーカーの多くは厳しい時代に突入する。5チャンネルを構築したマツダは、やがて経営危機を迎えていく。日産や三菱自工も同様に危機を経験する。

バブル崩壊後の90年代から2000年代半ばにかけて、スズキが比較的安定した経営を維持できたのは、軽トップに君臨できていたからだ。登録車の販売が落ち込んでいくのと異なり、安価な軽の販売台数は落ち込まなかった。安価な軽自動車は、景気が後退し「失われた時代」にあって、生活者にとって必要とされる商品として光を放ち続ける。

スズキの国内販売を支えたのは、全国に点在する業販店だった。スズキとは資本関係はなく、鈴木修が彼らとの人間関係を紡いでいた。

なお、鈴木修は50代でタバコをやめている。自身の健康を配慮してだった。

あるダイハツの技術者が考えた鈴木修

それは1987年のことだった。30歳になったばかりの田中裕久は、仏像の発祥地として知られているパキスタン・ガンダーラ地方のタキシラという村にいた。

東大阪市出身の彼は、国立京都工芸繊維大学で材料工学を学びセラミックメーカーに就職。ところが、29歳のときにドロップアウトする。

「このまま、自分はサラリーマンで終わっていいのか。(傾倒している)仏教では『人間本来無一物』と、ものなど持たない方がいいと教えている。なのに、自分はものをつくる開発の仕事をしている。一度、人生をリセットしてみよう」

会社をあっさりと辞めてしまう。退職金や餞別、そして貯金をリュックサックに仕舞い、世界を放浪する旅に出る。このとき、高級クリーニング店を経営する父親からは、勘当されてしまう。

大好きなビートルズの故郷、リバプールからスタート。スペインに渡り、地中海をはさんで南欧と北アフリカを往き来し、トルコを経由してシルクロードを東に向かう。半年以上かかって、ようやく辿り着いたのがタキシラだった。