「スズキ」と呼ばれる乗り合いタクシー

村には端から端までをつなぐ緩やかにカーブした一本道があり、数台の軽トラックが乗り合いタクシーとして往復していて、人々の生活を支えていた。道沿いのどこからでも乗降できる便利なこの乗り物は、一般のタクシーとは区別されて「スズキ」と呼ばれていた。スズキ以外のメーカーの小さなトラックは、ロゴを消されてペンキで「SUZUKI」と手書きされていた。

現地で仏像を彫って、毎日を過ごしていた田中は、乗り合いタクシーを利用する度に考えるようになっていく。

「こんな小さな村でも、固有名詞になるほど、スズキの軽トラックは人々に愛され利用されている。すごいことだ。社長である鈴木修さんの意志が、村人に伝わっている。やはり、僕はモノづくりに再び挑戦しよう。裕福な人向けの大きくて贅沢なクルマではなく、世界中にある貧しい村の人たちを支える小さくて環境に優しいクルマを、僕は作りたい。乗り合いタクシー『スズキ』のような。

そもそもインドやパキスタンのような貧しい国で、現地生産する自動車会社は世界中でスズキだけだ。大きなリスクを背負いながらも立派に経営をしている鈴木修社長のもとで、できたら働きたい」

モノづくりは人を幸せにする

永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)
永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)

ガンダーラを離れると田中は、インドを長期間旅する。その後、ネパールで追い剥ぎに遭い無一文に。しかたなく1年に及ぶ放浪を終え、帰国し、すぐに結婚。一時中小企業に勤務するが、89年2月にたまたま求人があったダイハツに入社する。スズキへの入社を希望していたが、スズキの求人はこの時期にはなかった。

「タキシラにはトヨタもソニーもなく、日本の工業製品はスズキの軽トラックしかなかった。自動車会社に就職したのは、鈴木修さんがきっかけでした。

モノづくりは人を幸せにする、という仮説を帰国してから僕は立てた。軽自動車づくりで、インドをはじめ、世界じゅうに無数にいる貧しい人々を幸せにしたい」

ダイハツに入社した田中は、ある技術開発を成し遂げる。