千葉県で小児科の開業医として働きながら、次々とノンフィクションを発表し、話題を集めている医師がいます。最初の著書では「小児がん」の子供たち、最新刊では「発達障害」の子供と母親の17年間をまとめています。松永正訓医師は、なぜ取材を繰り返し、本を書き続けるのか。本人に聞きました――。(後編、全2回)/聞き手・構成=稲泉連
松永正訓医師(撮影=プレジデントオンライン編集部)
小児科医の松永正訓さんの新刊『発達障害に生まれて』(中央公論新社)は、自閉症の子を持つある母親の「受容」の物語だ。主人公の母親の子供である勇太くん(仮名)は、2歳のときに知的障害をともなう自閉症と診断を受ける。最初はその事実を受け入れられなかった母親が、勇太くんの障害をありのままに受け止め、障害者を持つ一人の親として自立していく過程が本書には描かれている。

――多忙な医師としての仕事をしながら、それでも取材をして本を書くのはどうしてですか。

医師である僕が「書くこと」を始めたのは、今から10年前のことでした。『命のカレンダー』(現在は『小児がん外科医』に改題されて中央文庫)という本で、大学病院に勤めた19年間で出会った子供たちについて書いたものです。

1987年に医学部を卒業した僕は、それからの19年間、大学病院で小児がんの専門医として働いてきました。

僕は大学病院で203人の小児がんの子供たちを治療しました。その日々はまさに子供たちと一緒に病と闘うようなものでした。小児がんと言えば白血病を想像しますが、僕の専門は小児固形がん。患者の亡くなる率は高く、7割の子を助けることができた一方で、3割の子は亡くなっていきました。

「子供を失う」という言葉にしがたい悲劇

当時は毎日の治療で必死でしたが、病院を離れてみて心に焼き付いているのは、やはり助けられなかった子供たちのことでした。僕はその現場を離れたとき、どうしてもその子供たちについて書いておかなければならない、と思ったのです。

子供を失うということは、親にとって言葉にしがたい悲劇です。多くの人たちが普通に社会生活を営んでいるまさにいまこの瞬間も、わが子が死んでしまうのではないかと毎日、考えている家族がいます。家族は365日病棟に泊まり込んでいます。そして、抗がん剤を投与されている子供の傍らに寄り添う母親たちは、毎朝、目覚める度にわが子の口元に手のひらをかざして、息をしているかどうか確かめるのです。そんな母親たちの姿を、僕はずっと見てきました。

ただ、小児がんの病棟がどれほど過酷であっても、僕にはそこから逃げ出したくなるという気持ちはありませんでした。ある程度の治療をすると、その子がもう助からないことが分かります。あと一年、あるいはあと半年といった判断がなされた後、医師としての自分の仕事は、家族がその死をどう乗り越えるかを一緒に考えていくことでもありました。

この世界にはそのような不安と哀しみの中で生きている人たちがいる。それは当時の若い僕にとっても衝撃でした。その人たちの姿をもっと知ってもらいたい、と思って本を書いたのです。